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読書家たるもの、原著を読むべきか

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

神保町や古本市に訪れる度に、今回こそは挑戦した本を買おうと意気込むのだが、結局タイトルや著者に怖じけ着いて紐解かずにいる。

先日の京都は納涼古本まつりにて、隣りにいた女性がおもむろに手を取った本が、心理学者「フロイト」に関する本で、ちょっとたじろいでしまった。

人並み以上に本を読んでいると自負しているが、正直読んでいない本の方が多い。

カントの「純粋理性批判」とかハイデガーの「存在と時間」、アリストテレスの「形而上学」などなど…。

そんな事を言うと、自称読書家と名乗っているくせに読んでないの!? と言われるかもしれない。

そう言えば「読んでない本について堂々と語る方法」にそんなエピソードがあったのかもしれない。そういうのはよく覚えている。

もとより本を読んでいる間は、あまり考え事をしたくないと思う傾向がある。

小難しい本を読みたいという気持ちはあるのだが、今回はやめておこうとを繰り返している。

かと言って、自由訳や超訳に手を出すのも、何故か「負けた」と思ってしまう。

読むからには原著に立ち向かいたいと思う自尊心と、とにかく一度は目を通した方が良いのではという、謎の葛藤で揺れ動く。

このあたりの考え方は人ぞれぞれだろう。逆に、未読でいるよりかは、まずは簡単な本でもいいから手に取るべきだと推奨することもある。

そもそも自分が無知であることに気づくのが重要だから、知らないことに気づく本であれば問題ないと。

だが、教養を深めたいのであるならば、概要を浅く捉える本ではなく、最初から脳に汗をかきながらでも難しい本を読むべきだという主張もある。

最初に薄い本から入るのでは、「ひ弱な知識」しか身につかず、その人の教養の涵養にとって、決していい方法ではありません。初めに難儀なものに挑戦して、あとで楽をしたほうが絶対いいと思うのです。

出口治明「本物の教養」幻冬舎 107頁より抜粋

こうした入門書や解説書を読むのは、旅行に行かずに絵ハガキやネットの画像で満足してしまうのににているかもしれません。…オリジナルの本を読むには時間も手間もかかりますが、エネルギーを使った分だけ、確実にそれらが血肉になります。

丹羽宇一郎「死ぬほど読書」幻冬舎 71-72頁より抜粋

読書家たる者、やはり原著や小難しい本に挑戦すべきだなとは思いつつ、そう言えば、うちの読書会でフロイトやカントを持ってくる人も見たことないなとも思う。

結局、読みたいと思った時が読むべきタイミングである。今はまだその時期じゃないのだから、無理して読むこともないのだろう。

まぁ昔買った天野貞祐の「道理の感覚」や九鬼周造の「『いき』の構造」なども実家に積まれたまま未読なわけで、いつかタイミングが来たときにでも紐解こうとは考えている。

その日が来るのは、いつになることやら。それではまた次回!

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