読書記録「泥流地帯」
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
今回読んだのは、三浦綾子さんの「泥流地帯」新潮社 (1977)です!
・あらすじ
大正十五年 (1926年) 十勝岳の爆発による泥流は、上富良野の開拓地をなぎ倒して行った。当時の死者・行方不明者は144名に上るという。
耕作は富良野の部落で生まれ育った次男坊。兄の拓一 姉の富 妹の良子 そして祖父母の市三郎とキワ。毎日田畑を耕すもひもじい日々を送っていた。
耕作や拓一の父親は既に亡くなり、母は手に職をつけるため髪結いのために札幌へ。市街の人からは水呑百姓と揶揄され、母は子どもを残して逃げたと後ろ指を指される。
だが祖父の市三郎は決して道楽にふけることなく、いつだって誠実に生きることを子どもたちに説いてきた。そのため、耕作も拓一も真面目に育った。
耕作は村の誰よりも勉強ができる。部落ではじめて中学(当時の旧制中学)に一番の成績で入学するも、金もなく、家族のためにとなくなく退学してしまう。
貧しくも、清く生きる彼らに泥流は襲いかかる。果たして、この人生の報いとは何か。
池袋の東京読書交換会にて、旭川の三浦綾子記念館で購入した本。今になって、ようやく読み終えた次第。
貧乏ゆえに、部落の人間だからと卑下されても、決して落ちぶれること無く、何クソと成長してく兄弟の姿に、何度も目頭が熱くなる作品でした。
村が泥流に流される光景。思い浮かべたのは、もう10年以上前のことになる東日本大震災。
恐れながらも、私はテレビでしか震災を見ていない。ただ、報道番組で観た押し寄せる津波と、「逃げて!」と叫ぶ女性の声が、未だにこだまする。
災害は平等に来ても、被害は不平等。偶然被害を逃れた人もいれば、一方で被害を被ってしまう方もいる。
生死を分けた理由が日頃の行いのせいならば、果たして清く正しく生きることに、何の意味があるのだろうか。
だが、物語の最後、このような台詞がある。
震災もロクに経験していない私が言ったところで、所詮は綺麗事になってしまう。
それでも、生き残ったからには、きっとなにか意味があるのだと、そう言いたい。
そんなことをふと考える作品でした。それではまた次回。
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