「美しい」が分かるとは?
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
先日京橋はアーティゾン美術館に訪れたこともあり、最近はアートや芸術に関する本が目に留まる。
とは言え、私自身芸術や絵画について勉強してきたわけではない。絵画を見ても、なんかいい絵だなぁと思う程度で、絵画の見方とか、歴史的背景などは全く知らない。
毎回美術館の独特な匂いと、なんか良いなぁを感じに訪れている感じが強いのだが、そもそもこの「なんか良い」とは何なのだろうか。
そこで、橋本治さんの「人はなぜ『美しい』がわかるのか」筑摩書房 (2002)を紐解いた。タイトルからして私の疑問を晴らしてくれると思った次第。
著者は冒頭、美しいものは合理的であると述べる。スポーツ選手の美しいフォームのように、優れた彫刻には黄金分割があるように。そして大抵の人は、合理的であることを美しいと言うと。
だが読み進めていくうちに、美しいものは合理的な仕上がりをしていることを、嘘だとも述べる。
絵画や彫刻が合理的だから美しいというのは人間の都合である。なぜなら我々は合理的ではないものを美しいと思うこともあるからだ。
個人的な話をすれば、私自身台風や雷雲が好きである。特に夜中の稲光は時間を忘れて見入ってしまう。
見ている間、稲妻が発生する合理的な原理や気象現象の科学的な裏付けなんか関係なしに、ただただ美しいと思ってしまう。
とは言うものの、後半でやはり美しいものは合理的であると考えてしまうと著者は述べる。
稲光などが美しいと思えてしまうことは、自分の中で満たされないものがあって、目の前の稲光は思う存分力を発揮できていて良いなぁの裏付けなのだろうか。
それがある種の合理的なものだから、美しいものがなぜ美しいのかを考えてしまうことにつながっているのかもしれない。
結局のところ、美しいと思うのは人間側の捉え方次第である。その人にとっての美しいは湧き出るものであって、何がどうこうとか理解しようとする必要もないかもしれない。
ちなみに、最近秋田麻早子さんの「絵を見る技術」朝日出版社を紐解いたのだが、こちらはタイトル通り、絵画における配色や構造を知ることで絵を観察できるようになる技術である。
あくまでも私自身の考えだが、絵を見る技術を養うことと、美しいという感性を磨くことは、別のベクトルだと思う。
秋田さんの仰るとおり、素晴らしい絵にはいわゆる合理的な技法が数多く存在する。それに気づけば、なるほど、だからこの絵は素晴らしいのだなと思う点に関しては一理ある。
実際、そういう絵画の技法に気づいたという感動が、これまで一度もないと言えば嘘になる。でもそれは絵から美しさを感じたというよりは、発見したという感動である。
要は絵画を見て美しいと思うことと、絵を見る技術を養うことで得られるものは、また別なんだなと思った(もっとも、美術館でもっと楽しく絵画を見れるようにもなりたいから、読んではいるけれども)。
美しいものは美しいものだと言ってしまったらもとも子もないが、橋本さんの締めの言葉を借りて「そういうものはそういうもんだ」でいいのかもしれないね。それではまた次回!