どうしても読めない本はあるさ
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
四連休初日。午前中に友人とカタンをやって以降、もうスケジュールが真っ白の人。
でも、無理して出掛けようとすると、ただただ歩き回って終わる傾向がある。それなら、コンビニでちょっと高いお菓子買って、珈琲淹れて部屋で本を読み耽るのも悪くない。
今更ながら、本を沢山持っていって読書合宿ってもありだなと思う。今年の夏の京都は、そういう時間にしよう。
それはさておき、大抵の本は最後まで読みきることを目指して本を紐解いてはいるが、時折早い段階で諦めてしまう本もある。
最近だと、黒田夏子さんの「abさんご」。神保町の澤口書店で見掛けて紐解いたのだが、不徳の致すところではあるが、今の私には内容がきちんと理解できなかった。
学生時代に、「らき☆すた」の作家 美水かがみさんがカバーを書き下ろした、ニーチェの「若き人々への言葉」を読んだときも、当時の頭では皆目理解できなかった(大学時代に再挑戦して、また諦めた)。
ドストエフスキーの「地下室の手記」も、やたらと陰気な話が続くくせに、行間が狭くてちょっと読み続けるのが億劫になった。
あと、読めない本ではないが、中学時代に東野圭吾さんの「探偵ガリレオ」を紐解いた際は、いまいち物語を理解できなかった。
そのせいで、大人になっても、東野圭吾さんの作品って難しいという印象が付いていて、ここ最近まで読まず嫌いだったくらいだ。今では「白夜行」も読んでいるけども。
何が言いたいのかと言うと、どうしても読めないとか、あまり気が進まない本はあるもので、それを無理に読む必要性はないと思う。
私の読書の大前提は、本を楽しく読むことである。頭を捻りながら難しい本を解読するよりも、落ち着いた気持ちで本を読みたい。
それに、何事もタイミングもあると思う。当時読めなかった本が、今なら読めるようになった本は少なくない。
具体例を出すと、太宰治の「人間失格」や梶井基次郎の「檸檬」とか。中学時代の純文学縛りで買ったけれども積読にしてた本が、今ならそれほど苦にならずに読める。
そうやって、徐々に読める本の幅や種類が増えて行き、ゆくゆくは何でも読めるような人になりたいものである。
そのためにも、難しい本を読んで、訓練する必要はあるかもしれないけれども。それは追々。それではまた次回!