私の言葉は届いているのだろうか。
川口市出身の自称読書家 川口竜也です。
かれこれ1年以上noteを継続投稿している。未だに自分が目標に掲げている「言葉を届ける人」に向かっているのか、わからなくなる時がある。
役に立ちました!共感しました!というコメントを頂くことがあるけれども、それって言葉を届けていることに含まれるのだろうか。
ライターとして仕事をしているが、これはある意味情報を届けている感覚が強い。
もちろん、この記事を読んだから実際にサービスを使ってみようと思ったのなら、ある意味この記事(言葉)に感動したとも言えるが、果たしてそうだろうか。
人の心を揺さぶるような、人に感動を与えるような言葉を届けているのかと問われると、また疑問である。
私の言葉に感動するような、そんな人になりたいという願いで掲げたはずだが、自分ですらそれがどんな人であるか、よく分かっていない。
先日会社の本棚にあった一倉宏さんの「ことばになりたい」毎日新聞社 (2008) を読み終えた。タイトルに一目惚れして、積読が溜まっているにも関わらず借りてしまった次第。
タイトルにもなっている作品が、私の心を捕らえた。
これだ。私が望むものは。借り物の言葉を使うのはどうかとも思うが、こういう人間に私はなりたい。
同時に、なりたいものを選ぶことは、なりたくないものを選ぶことでもあるのだなとも思った。
以前受けた外部の研修で、スケジュール帳は真っ黒にすべしという話があった。スケジュール帳を縦で管理して、空いている時間帯に予定を詰め込むことで自分の時間を有意義に使えると。
最初は真似してやってみたけれども、長期で予定を決めるのが面倒くさくなり、1ヶ月も続かなかった。
私のスケジュール帳は真っ白だ。いつが良いと聞かれたら、いつでも大丈夫と答えられる人間である。
おそらく私は、スケジュールで人を感動させる人間にはなれない。いや、むしろなりたくないというのが正しい。
そうやって、自分が届けたい言葉を考えてみる。自分が目指している、言葉を届ける人って、どんな状態像なのか考えてみる。
私自身、何度も言葉に救われてきた。それは何とか、どんなとかではなく、辛い時の「お疲れ様」や弱っていた時の「心配いらないよ」に、何度も救われた。
逆に、言葉が人を傷つけるものになることも、理解しているつもりである。嫌な言葉を投げかけられると、深く深く傷ついてしまう。単純に、怒られ慣れてないというだけかもしれないが。
結局的を射ない感じだけれども、少なからず言えるのは、人生なんとかなるってことかな。
浅いようではあるけれども、これってとても大事なこと。大きな目標を掲げなくても、誰かが望む道を進まなくても、それなりに人生なんてなんとかなる。
死にたくなるほど、自分を責める必要なんてないのさってね。
それが私が言葉を紡ぐ理由の1つかな。うん。