免罪符の話
よく比喩で用いられる表現ではありますが、改めて調べてみた。
免罪符とは
カトリック教会が善行(献金など)を代償として信徒に与えた一時的罪に対する罰の免除証書。中世末期、教会の財源増収のため乱発された。1517年、聖ピエトロ大聖堂建築のための贖宥に対しルターがこれを批判、宗教改革の発端となった。贖宥状。
罪や責めをまぬがれるためのもの。
我が家の話
私は、子どもの卵アレルギーを治したいと思っています。そのためには、毎朝、決められた卵の分量を含ませた料理を息子に食べてもらい、その食べた分量と反応を記録していく(これを我が家では、卵トレーニングと呼んでいる)必要があり、その結果報告を定期的な通院で行わなくてはなりません。つまり、毎朝とても面倒で、サボりがちなのです。
一方、息子は、卵を口にすることで、分量によっては口の中が赤く腫れたり、腹痛や下痢をしたり、嘔吐することもあります。だからとにかく卵を食べることを嫌がり、卵アレルギーはもう治らなくていいと言います。でも、それは本当に治らなくていいという気持ちではなく、嫌なことから逃げたい、最初から卵アレルギーにならなければよかったのにという気持ちです。
結果、卵アレルギーの改善は進んでいません。原因は、息子が卵トレーニングをしても改善されていない体質なのではなく、卵トレーニングを行っていないからです。これには、2つの免罪符があります。
子が嫌がり、卵アレルギーは治らなくいていいと言っている(親目線)
親が毎朝の食事の準備のひと手間をさぼっている(子目線)
さらに卵トレーニングが進まない背景には、卵アレルギーが我が家にとって緊急ではないこともあります。毎日の生活は卵を除けばいい話なので、少しの手間はあれど、何の問題もありません。
でも、卵アレルギーを治すことはとても重要なことです。災害時にも食事制限が必要なことや、卵を意図せず口にしてしまった場合に命を落とす可能性があることを考えれば、治るのであれば治した方が良いです。
それなのに、当事者のはずの両者がお互いに「相手が◯◯」という免罪符を使える状態にあるから、何も進まない。もしかしたら、子の年齢が上がることでアレルギーの体質が改善しづらくなるかもしれない。子の卵への苦手意識が強くなることで、卵トレーニングもさらに進みづらくなり、気付きにくいかたちで悪化している。
免罪符的な思考をやめたい
免罪符のような思考はいろんな使われ方(意図していないことも多い思考)があるけれど、当事者にならない言い訳にとして、私は私に使いがちだと思っています。できれば、問題に気がついている時に、自分が当事者にならないなら、当事者だと思っている方に「あなたが当事者である」と明確に伝えなくてはならないし、そうしないなら、自分が当事者であることを自覚して行動しなくてはいけないとしていきたい。
でも、これを完璧にやっていこうとすると、解決すべき問題なのかを見極めること、その優先順位をつけることの精度を高くしていかなければならない。そうでなければ、気がついている問題全てに全力で挑んでいくこととなりかねず、かなり無理が出てきてしまう。だからまずは、気がついている問題を並べて、それは本当に問題なのか、問題の大きさはどのくらいかをきちんと確認していきたい。
解決しない(≒環境に自分を委ねる)と決めることと、免罪符を使うことは、目に見えている状態(事実)は、同じだとしてもその未来への責任の感じ方は全く違う。
無理を抱えようとは全く思っていないけれど、できるなら、自分で自分の環境に責任を取れる自分でありたい。いま自分がいる周りに点在する問題を解決していくために、できることはしたいし、できることも広げていきたい。
まず、見えない誰かや自分に赦してもらうための思考はやめたい。
ということで、また今日から卵トレーニングをやっていく!
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