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地方の三本立て上映「悲喜回想」
自分が生まれ育った町(人口3万半ばの小さな市)は、映画館が三館しかなかった。このため、日本の映画会社が製作するすべての作品が公開されることはなかった。
当時、邦画六社(つぶれる前の新東宝を入れて)は、需要を満たすよう懸命に作品を作り続けるのだが、逆に映画館側としては、お客を確実に呼べる作品を選別し、興行会社と契約を結び上映に踏み切っていたのだろう。
3/4世紀以上も前の、色んな資料を紐解くと、あのころの日本映画界は、安定したお客を映画館に呼べたのは、「東映チャンバラ映画」、「日活アクション映画」といわれている。この二社が主流で、やや差が空いて東宝、大映、松竹の三社が横一線で並ぶ状況だったと言われている。
東映は、片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大が君臨し、若手の錦之助、橋蔵と、中堅クラスの大友柳太朗、歌謡界を兼用する美空ひばりら、豪華トップスターが揃っていた。スタークラスの俳優陣が豊富なため、毎週繰り出す二本立て作品が多くのファンに受け入れられヒットに結び付いた。
日活はというと、スター級の人数は限られ他社に差をつけられるも、裕次郎とアキラの作品だけで客を呼べる他社とは違った構図を持っていた。この両輪で業績を伸ばし続けていた。
一方、東宝は文芸作品と喜劇もので追随するも、若年層のファンを抜き去るには及ばなかった。松竹は自慢の女性映画と文芸もので追いかけるも、長年のマンネリズムからの脱却には至らず。大映は、大御所・長谷川一夫の人気が下降気味で、京マチ子、山本富士子、若尾文子らの女性映画では、新鮮さという魅力に欠け、企画の貧困さは否めなかった。
そうした事情の中、映画界は週ごとに取っ替え引っ替え上映を繰り返していた。当地の上映システムは三本立ての週替わりなので、約6~7日で作品は次々に変わっていく。まれに、1週に満たない3日間で消え行くプログラムもあった。映画館は3館のみで、一館が「日活」「松竹」「大映」を上映し、 もう一館は「東宝」「東映」「洋画」であったような記憶がする。もう一館は座席数が少ないため、旧作を上映する名画座的役割を果たしていたように思う。
そのような状況なので、封切館には掛かるメーン映画の添え物作品とかSP作品は上映することが叶わなかった。例えば、日活系では、「刑事物語シリーズ」、「事件記者」は、後年CS放送の「チャンネNECO」でお世話になった次第である。
映画館主の視点からすると、老若男女の大勢が館内に埋まることがベストなため、一度に男性ファンと女性ファンを呼び込むことが、観客動員における腕の見せどころなのだろう。自分が数多く通ったある館は、概して、「日活アクション」と「松竹女性向きメロドラマ」ものが主流であったと記憶する。さらに、もう一本は白黒もので買い付け価格の安価な作品が添え物として上映されたのではないか。
映画館側は、大勢の客を呼ぶために男性向き、女性向け作品を同時に上映し、需要に応える役目を果たしていたともいえる。
日曜の朝、早々に映画館前に並ばないと、お気に入りの席が取れない、これが悩みの一つでもあった。寒空の中、開場の30分前に並ぶのは結構大変なのだ。挙句の果てに、眼中にある「渡り鳥シリーズ」が三本立ての最後に上映されると、延々と三時間近く待たされることになる。内心は、松竹映画の小難しい「メロドラマ」はどうでもいい。されど、「マイトガイ」が観たい、その一心で長々と続くメロドラマに付き合わされる悲劇が起こるのである。