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知らないから、会話をして知りたいんだ。

先日、デンマークと日本の教育を例に出して

コミュニケーションとは、前提としてそもそも人間生きている数だけ価値観が異なるのだから、少し会話をしただけでお互いをわかり合うなんて考えは甘いんじゃないか

という話をしました。

そもそもコミュニケーション(英:communication)とは、「伝達」「通信」「意思疎通」などの意味の表現で語源はラテン語で「分かち合う」を意味する「communis」だそうです。

『分かち合う』とは分け合うこと。 互いに共有すること。 主に痛みや苦しみなどについて用いることが多い表現です。

先日のnoteでは、職場においてのコミュニケーションを例に出しましたが、そもそもコミュニケーションの目的ってなんなんでしょうね。

コミュニケーションの語源である『communis』から考えると、分かち合う、すなわちお互いを知ろうとする行為がコミュニケーションになるのではないか、と僕は考えています。

お互いを知らないからこそ、会話を経て、関係性を高めようとする。

これが私達がコミュニケーションをする目的なのかもしれません。

と考えると、よく話のオチが分かっているのに、結論まで言うのが遅い人っていますよね。

そうすると『早く結論言えよ!』とヤジが入ったりするかと思います。
(すいません、僕結構言います。)

これは逆に何を言うか分かってしまっている為にコミュニケーションを終わらせようとしていると考えられませんか?

分からないからこそ、コミュニケーションは楽しい。盛り上がる。

好きな人ができても、相手の気持ちが全て読めてしまったらつまらないと思うんです。

むしろ、自分のことが好きなのか、付き合ってくれるのか、駆け引きするのが恋愛の醍醐味なのに、心の声が読めてしまって『あいつと付き合うとかないわー』と分かった途端、興醒めですよね。

というより、私達は人の考えていることなんて日常的に知りたくないが本音かもしれません。

分からないから会話をしてその人のことを知りたい。
正確に言えば、知りたいと思う人だから、話したい。

その余白(まだまだ知らないことがある)を意図的に私達は残しているんだと思います。

と考えると、世界には色々な人がいる中で、誰でもいいからその人のことをもっと知りたいと思うのではなく、知りたい人は私達が無意識のうちに選別しているのかもしれません。

昨日、今日でだいぶコミュニケーションについての理解が深まりました。

まとめるとコミュニケーションの目的は

個人的にはお互いを知るためだと考えています。

そして、昨日、コミュニケーションが上手くいないんです、会話しても続かないんです、と言った職場の接客風景を見て、そもそもコミュニケーションに対するスタンスが違うんじゃないか、という記事を書きました。

デンマークでは自分の意見をしっかり言えるようになる教育。
日本では1つの答えを求められる教育。

だから日本人はコミュニケーションすると、意見が合うものだと勘違いしている可能性があるために、意見が合わなかったりした瞬間にコミュニケーションを終わらせるんだと思います。

そこからがコミュニケーションなのに、、、、

意見が違っても良い、むしろそこからがコミュニケーションの始まりだと考えると日頃のコミュニケーションが少し楽に感じますね。

2021年残り110日。9月残り18日。今週後7日。5記事目。





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