新地球とは? 近未来への妄想(五)
§8 江戸期の庶民の暮らしにユートピアを探る
貨幣経済は、もちろん明治以前にも存在した。
だがその規模は、当時の日本の人口に比しても
わりと限られた、補助的なものであったろうと
推測するのだが、
「宵越しの銭は持たねぇ」
―― たとえ、やせ我慢であれ、こんなセリフが
庶民の生活で本当に聞かれていたのだとしたら、
江戸時代とは、どういう世の中であったのか?
庶民にとって「お金」とは何だったのか?
一方、
「お金がなくて、どうやって生活するんだ?」
としか考えられなくなっている現代人。
こういう固定観念の陥穽のようなものにこそ、
我々を縛り付けている社会病理の正体が
あるように思えてならない。
「江戸」を学問としてであれ趣味としてであれ、
研究している人は大勢いるようだ。
YouTubeチャンネルには江戸オタクの動画が、
わんさか出てくる。
だが、こと貨幣経済の事情となると要注意だ。
どんなに「江戸」に詳しくても、貨幣の本質まで
正しく理解している人は見た所、皆無だ。
どうしても現代人のお金感覚のまま、
江戸庶民の暮らしを推し量ろうとしてしまう。
ひとつの想像だが、もしも江戸庶民が
タイムマシンで、現代人の様子を覗き見したら、
我々を「お金の奴隷」のように感じてしまう
のではないか?
疲れ切った現代人は、いつも虚ろな暗い顔をして
お金のことを気にして暮らしている。
江戸庶民は実際どうだったのか?
*****
そもそも、貨幣の流通量が、幕末当時と現代と
では何百倍も違う。このことは以前のブログ
で紹介した。
たびたび手前味噌で恐縮だが、大切な事なので、
ここにもリンクを貼らせてもらう。
まだご覧でない方はぜひチェックを……
貨幣が決して「富」ではない、ということが
理解いただけるかと思う。
ブログ記事
「お金とは? 固定観念を取り払い、二重三重の誤解を解こう」
https://note.com/katoyamato/n/nbb44b0f982b9
江戸時代の貨幣流通量が(人口比を考慮しても)
圧倒的に少なかったのであれば……
現代の常識で普通に考えれば、庶民は
極度のインフレに苦しむはずなのだ。
(失礼!逆でした。デフレです)
しかし実際はどうだったのか?
本当に当時は貨幣経済だったのか?
もしかしたら、貨幣「外」経済が本流だった
のではないか?
*****
本格的な貨幣経済は、明治維新後、
松方正義・渋沢栄一などによって銀行が
設立され、積極的に貨幣発行が始まってからと
観て良いと思う。
(英国資本の HSBC がそれに先立って横浜に
支店を設けていたという話も聞いているが)
渋沢栄一は、渡航先のパリ万博(1867年)で
ロスチャイルドの一味たる国際金融資本から
良からぬアドバイスをもらって
日本に戻ってきたと、林千勝氏は説明している。
渋沢栄一といえば大河ドラマでも扱われ、
2024年7月からは一万円札のシンボルだ。
「偉人」のイメージが人口に膾炙しつつあるが、
恣意的な「物語」で誰かをヨイショするなど、
メディアを掌中に収めているヤツらにしてみれば
朝飯前であろう。
日本社会が、
かつての「美しい日本」から変容してしまった
とするなら、そのきっかけは、やはりこの
明治維新前後にあったのではないか?
社会の「在り方」、人の「生き方」の根本が
おかしな方向へと変えられてしまったのだと。
とするなら、やはり江戸時代が気になる。
ところで、
ユートピアにはユートピアなりの高い靈性が
一人一人に求められるにちがいないと
筆者は思っている。
どんなに理想を高く持っても結局、
人々の靈性に見合った社会しか実現しない。
かつて、ユートピア思想として登場したはずの
共産主義が、ロシア革命以後、独裁恐怖政治の
代名詞に成り果てたことも、もしかしたら、
そういうことなのではないか?
登場するのが、あまりにも早すぎたのだ。
注)共産主義とは? 本来の定義は
「能力に応じて働き、必要に応じて
受け取る社会」※――これだけだ。だが、
これを実現した社会はいまだ存在しない。
ソ連も中国も、共産主義ではない。
にも関わらず、その後いろいろな
尾ひれが付けられてしまったのは、
たぶん意図的でもあったのだろう。
人為的にユートピアを計画しても成功しない。
皆が人として少しずつ成長し、ステージの階段を
上がりながら、自然にユートピアへ近づくのが、
健全な変化発展の流れではないかと思う。
少なくとも、
「制度」や「しくみ」が人類を救うのではない。
そういうものは「善の仮面」を被った何者かが
悪用する恐れすらあるだろう。
では、江戸庶民の精神性はどうだったのか?
高くはなかったとしても、もしかしたら、
それを補う何かがあったのではないか?
たとえば当時の教育。
寺子屋での子どもたちの「よみかき」では、
人の倫理を語るテキストが使われ
その音読を徹底していたのかもしれない。
その時は意味が分からなくても、
心の深いところに刻まれ、
あとあとハッと意味に気づいたりするものだし、
そうやって育った大人が更に子どもを育てれば
価値観の共有の下、何らかの社会の空気が、
形成されていくのかもしれない。
明治維新といえば「文明開化」と言われ、
あたかも、それ以前の日本は「文明」のない
暗く重苦しい封建社会だったかのような……
そんなイメージが一般的かもしれない。
どうやらこれは戦後、占領軍が教科書に仕掛けた
「GHQバイアス」だったらしい
―― などという話は、ここでは封印する。
実は、幕末から維新前後の日本を訪れた欧米人が
書き記していた日記などを見ると、
どの記述からも、重苦しいイメージとは真逆の
明るい庶民の姿が浮かび上がってくる。
まるで、かつての日本がユートピアだった
かのような側面すら垣間見られるのだ。
今回のサムネイル写真には、そういった本を
並べてみた。
人権思想も知らなかった当時の日本社会の
どこにユートピアがあったというのだ?
――と考える方も、きっと居られるだろうが、
そういうことではない。
問題は、当時の人々の「ありよう」なのだ。
(ちなみに筆者は、人権思想 = 善 などとは
思っていない。むしろ人間不信を前提とした
思想であり、利害関係を争い事へと焚き付ける
火種でしかないかもしれない。)
来日した欧米人の目に映る日本人の姿……。
海を泳ぐ魚たちは、自分が水の中にいることを
考えもしないだろうが、海の上を飛ぶ
鳥から見れば、海の中は別世界だ。
魚には見えないものが、鳥には見えたりする。
…などと、あまり上手い例えではないけれど、
来日した欧米人は、日本人が気にも留めない
何かに、嫌でも気づいたらしい。
だから、こういう文献は貴重なのだ。
一つ紹介したい。
江戸末期に来日した25歳のオランダ人、
まだ多感なものを色濃く残した心優しい青年が、
こんな言葉を書き残していた。
(しばしば各方面で引用されることのある
結構有名な一節だ)
《……しかしながら、いまや私が
いとしさを覚えはじめている国よ、
この進歩はほんとうに進歩なのか?
この文明はほんとうにお前のための
文明なのか?
この国の人々の質樸な習俗とともに、
その飾りけのなさを私は賛美する。
この国土のゆたかさを見、
いたるところに満ちている子供たちの
愉しい笑声を聞き、そして
どこにも悲惨なものを見いだすことが
できなかった私には、
おお、神よ、
この幸福な情景がいまや終わりを
迎えようとしており、
西洋の人々が彼らの重大な悪徳を
もちこもうとしているように
思われてならないのである》
――『ヒュースケン日本日記』(岩波文庫)から
1857年12月7日の記述
子供たちの愉しい笑声
――この見慣れた日常を、当事者たる日本人は
何とも思わないが、来日した欧米人たちには
不思議な光景だった。ヒュースケンだけでなく、
多くの欧米人が申し合わせたように同じような
記述を残している。なぜだろう?
(特に『日本奥地紀行』のイザベラ・バード
は、女性らしい目線で、日本の子どもたちを
つぶさに観察している)
ひとことで言うと――
まだ貨幣経済が浸透していなかった
ということではなかろうか? 親が不自由して
いないから、子どもたちも明るいのだ。
銭も使ってはいただろうが、
それが生活を支えていたわけではなかったし、
お金に対する執着も、それほどなかった。
では何が生活を支えていたのか?
おそらく共同体だろう。
幕府の緻密で行き届いた農業政策と、
勤勉な国民性の相乗効果で、
基本的に食い扶持は足りていた。
(飢饉でもない限り)
ゆえに、
貧富の差を無限に拡げてしまうパワーを秘めた
貨幣ではなく、共同体の中での助け合いが
生活の基盤として機能していたに違いない。
だが、蓄積できる性質のある貨幣を持つことで、
やがて、身近な仲間と「比較する」ことを覚え、
のちのち「充足と欠乏」「幸と不幸」の観念に
気づき始めるのだろう。更には妬み嫉み。
さて、この日、ヘンリー・ヒュースケンは、
米国領事タウンゼント・ハリスの通訳として
初めて江戸城に参内〈さんだい〉し、時の将軍・
徳川家定に謁見していた。
周知の通り、その目的は通商条約、つまり
「俺たちと本格的に交易を始めようぜ」
という交渉だ。
前年の夏、彼は伊豆の下田に上陸したばかりで、
以来、一年余りを海辺の片田舎で過ごしていた。
よって、この日まで大都会江戸を知らず、
未開の地に来てしまったと思っていたらしい。
(それは、先の引用の中にも現れていよう。
あたかも自分たちが文明と進歩を携えて
ここにやってきたのだという優越感。)
静かな下田で多少ホームシック気味だったのか、
海の向こう、祖国の病弱な母からの手紙を、
日々心待ちにしていたようだ。
日本到着前にアフリカやアジア諸国にも寄航し、
それぞれのお国柄も見聞していたことは
付け加えておく必要があろう。
日本と比較する視点が加わるからだ。
*****
余談だが、日本は本当に未開の地だったのか?
バロメーターとして参考になるのが、当時の
識字率(読み書きできる人の割合)であろう。
諸説あるが、
英国 25%
仏国 5%
日本 80%
――というデータもあり、日本、結構高いでは
ないか。これでも未開か?
(しかも江戸の人口は、ロンドンよりも多く、
すでに世界一の100万都市だったとも
言われている。それでも未開か?)
この80%という数字は、欧米人には
驚異にちがいない。
何しろ、たったの26文字のアルファベット
ではなく、日本語には何千種類もの漢字が
使われているのだから。
80%ともなれば当然、身分を問わず
文字でのコミュニケーションができていた
ということだし、
たとえば江戸の街角で、かわら版を見ながら
ああだこうだと評論家よろしく時事ネタに興ずる
子どもたちの姿もあったかもしれない。
この識字率のおかげで、日本はアジアの中で
植民地化を免れた数少ない国の一つだったと
考えられている。
「こいつらを騙し植民地化するのは難しいぞ」と
来日した欧米人たちは思ったのではなかろうか?
つまり、寺子屋での「読み書きそろばん」が、
結果として日本を守っていたと言えそうだ。
吉田松陰らが出現したのも、
寺子屋あってのことだろう。
家康以来、教育は幕府の基本方針でもあったと
思われるが、まさしく、ペンは剣よりも強し。
そう考えると、くれぐれも言葉というものを
ぞんざいに扱わぬよう心掛けねばと思う。
(たとえば「的を射る」をうっかり「的を得る」
と言ったり書いたりして、いつの間にか
日本語の破壊に加担してしまうこともあるし、
ここ10年ほどか、「煮詰まる」を「行き詰
まる」の意味で使う人達が現れた。自分で
料理する人が減ったからだろうか? 千年後
に古語辞典があるとしたら、何と記載される
だろうか?)
言語って、誤った使い方をしても、
世間に吸収されて拡がってしまうことがあって
それが多数派になると、言語自体が少しずつ
変化していく……、そういう懐の深さというか
柔軟性があって、だからこそ、
言葉はいつも新鮮で在り続けるのだろうけれど、
でも、祖先から受け継いできた宝だと思って
もう少し敬意を払ってほしいと、いつも思う。
敬語とか、結構面倒くさいこともあるけれど、
汚い言葉にその時代の民度が露呈してしまうし。
いけない。だんだん話が愚痴へと流れてしまう。
しばしば革命が起きるヨーロッパの為政者は、
権力を維持するために、庶民には
「由らしむべし知らしむべからず」
と考え、むしろ文字を普及させたくなかった
のかもしれないが、幕府はそうは考えなかった。
街の人通りに「御触れ書」の立て札を立てれば
幕府の決定事項が、たちどころに町民たちに
あまねく伝わるのは識字率の高さゆえだ。
幕府とは、一応「軍事政権」ではある。だが、
幕府にとっての「下々」も
庶民にとっての「おかみ」も、
平時は、お互いに信頼すべき存在で、その意味で
案外、垣根は高くなかったのではないか?
そのあたりも日本は、欧米と少し違うのでは。
そうあってこそ、文明国の為政者ではないのか?
日本の強さは、信頼による結束力だろう。
(ただし今の日本政府はとんでもない勢力に
乗っ取られているので、話は全く別だ)
何より、武士階級の生活も決して豪奢ではなく、
商人階級よりも倹しい〈つましい〉暮らしが
ザラだったようだ。
ヒュースケンの日記に次のような記述を
見つけると、そういう事を考えてしまう。
将軍に謁見したときの江戸城内の光景だ。
《日本の宮廷は、たしかに人目を惹くほどの
豪奢さはない。廷臣は大勢いたが、
ダイヤモンドが光って見えるようなことは
一度もなかった。わずかに刀の柄に
小さな金の飾りが認められるぐらいだった。
シャムの宮廷の貴族は、
その未開さを泥臭い贅沢で隠そうとして、
金や宝石で飾りたてていた。
しかし江戸の宮廷の簡素なこと、
気品と威厳をそなえた廷臣たちの態度、
名だたる宮廷に栄光をそえる洗練された作法、
そういったものはインド諸国のすべての
ダイヤモンドよりもはるかに眩〈まばゆ〉い
光を放っていた》
――『ヒュースケン日本日記』(岩波文庫)から
1857年12月7日の記述
こういう表現ができるヒュースケンの
25歳の感性に敬服する。
宝石や貴金属、勲章をジャラジャラとぶら下げ、
威光を示すような為政者の姿ではなかったのが
ヒュースケンには意外で新鮮だった。
この日は、海外からの使者との会見という特別な
セレモニーだったので、
それなりに正装をして着飾っていたはずだが、
将軍の身なりも、臣下のそれと大して変わらず、
着座位置が違わなければ、誰が将軍なのか
見分けがつかないぐらいだったのだろう。
よく教科書で目にする「大政奉還図」を
参考にすれば、だいたい想像がつく。
(ただし、大政奉還は二条城)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e2/Taisei_Hōkan.jpg
何より、木と紙で仕切られた城内の建て付けの
簡素なこと。
参考画像:江戸城松之廊下(たぶん CG)
https://pds.exblog.jp/pds/1/202110/12/42/a0277742_06512235.jpg
身分階級の違いにふんぞり返る権力者であれば
居城として、これはありえないだろうと
ヒュースケンは感じ取ったわけだ。
だいたい、日本の住居が紙と木材で
できているということは、火災の心配こそあれ、
防犯を考慮していないということだ。
まあ、エアコンもなかった当時の建造物が
紙と木だったのは、自然なことではあったろう。
だが実際、来日欧米人たちは皆、
江戸庶民の防犯意識の無さに驚いていた。
およそ文明国らしからぬ社会のありようと
言えまいか。
そもそも、日本の家屋は靴を脱ぐ。
外敵の侵入を想定しないのだ。欧米人は
そこにも日本人独自の精神構造を感じたに
違いない。
*****
更に文明国としての日本は「読み書き」
のみならず「そろばん」、つまり算術も
充実していたらしく、庶民の中には高度な
領域へと深掘りするオタクも結構いたらしい。
そんなわけで、「和算」と呼ばれた当時の日本の
数学のレベルは欧米に引けを取らなかった。
興味のある方はご覧あれ↓
「江戸見聞録」チャンネルから
「江戸時代の数学は世界最先端のレベルだった!大名から百姓まで趣味で「和算」を楽しんでいた」(動画 17’10”)
https://www.youtube.com/watch?v=o31J797IB3s
とりわけ関孝和は、欧米の数学界でも名の通った
歴史上の人物らしく、あちらの動画でも
紹介されている。ベルヌーイよりも先に
ベルヌーイ数を見出していたのだから。
英語の得意な方は参考までに(動画 09’10”)
https://www.youtube.com/watch?v=VbUXHJmucMQ
ここで注意すべきは、当時の日本は、
学歴社会ではなかったという点だ。
受験競争で良い学校に入り、安定した収入を…
などという打算でイヤイヤ勉強したのではない。
オタク文化的な「好きこそものの上手なれ」
のモチベーションが和算を発展させたらしい。
多少の競い合いはあったとしても、江戸時代の
それは奴隷的なドッグレースではなかった。
それぞれがそれぞれの道の独自の専門家で
ありたいとは思わないだろうか?
「ナンバーワン」よりも「オンリーワン」。
それで世の中がまとまるのか?
と言われそうだが、そこには神の采配が
あると信じたい。
「天職」という言葉があるけれど、それで仕事が
適材適所、自然に配分されるにちがいない。
配分にはバランスが必要だけれど、バランスとは
「まつり」。天秤のイメージで「真吊り」、
「釣り合わせ」だ。
政〈まつりごと〉は自ずと神靈政治となろう。
人が頭で考えるだけの民主主義では、
いくら合議制でも、「まつり」は無理だろう。
(民主主義も人権思想も、人間界のことしか
考慮しない。人間界の背後には広大多次元な
霊的世界が広がり、人間も他の動植物も、
そのお陰で存在できている。)
いや、今この瞬間だって人々が気づかぬ所で
神の天秤が多少は働いているのではなかろうか。
話が飛躍しすぎだろうか?
普段『大日月地神示』を音読しているからか、
最近、変なことばかり考えている。
余談が長くなった。
*****
ヘンリー・ヒュースケン ――
故郷オランダを離れ、意気揚々と新天地
ニューヨークに移り住んだが、仕事がなく夢破れ
貧乏ぐらしのどん底にあえいでいた時、
彼は、外交交渉通訳の募集を知った。
(そう。当時の彼は困窮していた。そんな
彼の心に、異国の子供たちの愉しい笑声は、
どんな風に響いただろうか?)
米国政府が若いヒュースケンに
ハリスの交渉通訳を任せることになったのは、
彼が英語とオランダ語の両方に
通じていたからだ。
幕府にとって、西洋の言語といえば専ら
オランダ語で、英語の「通詞」は居なかった。
到着後、幕府と下田のハリスとの折衝は難航し、
江戸登城の日取りが決まるまでに
1年以上掛かった。
江戸までの行程、ハリス&ヒュースケン一行は
幕府の役人による丁重な先導の下、7日かけて
大名行列のようにして移動した。
下田 → 天城越え → 修善寺 → 三島から東海道に→ 箱根の関 → 小田原 → 藤沢 → 神奈川 → 横浜
→ 川崎 → 品川 → 江戸城の宿所
途中、雪を戴いた富士ヤマが眼前に現れ
ヒュースケンは心底感動したらしい。
《この美しさに匹敵するものが世の中に
あろうとは思えない》などと、富士ヤマだけで
活字の小さい文庫本の2ページを占めているが、
それよりも、やはり興味深いのは、
彼が旅の途中で目撃した当時の日本人模様だ。
……ああ、きりがない。
本稿のテーマはヒュースケンの足跡を追うこと
ではないので、このぐらいにしておきたいが、
およそ3年後の 1861年1月15日、
彼は芝赤羽(現在の港区三田)の古川ばたで、
夜陰に紛れて待ち伏せていた攘夷派の浪士に
斬殺されてしまう。
享年28歳。
残された貴重な記録は、彼が生きていた証だ。
これを知っていただきたく、素材に使わせて
いただいた。
こういった文献に興味を持たれた方は、
『逝きし世の面影』(渡辺京二著)
をお薦めしたい。労作だと思う。
平凡社の文庫本で入手できる。
*****
貨幣経済が貧富の差を拡大し、
更にそれに追い打ちをかけるように、
戦後、人権思想がもたらされた。
先にもチラリと触れたように、
人権思想を進歩と考えるのは早計であろう。
むしろ猛毒ではないかとすら筆者は考える。
憲法の基本的人権の条文は表向きは
確かに良いことを言っている。
だが、そこで語られている「良いこと」はすべて
倫理の問題であり、すでに常識だったものだ。
常識をわざわざ憲法条文に盛り込むのは、
これを土台として、六法をはじめとした法律を
組み立てていくという都合からだろうけれど、
分かりきったことでも、それを条文化することで
おかしなことが起きないか?
その最たるものが「プライバシー保護」では
なかろうか? これはいったい何だ?
何のために「保護」するのか?
「プライバシー保護」のおかげで、
「個人情報ですから」と近所のアパートから
表札が消えた。誰が住んでいるのか、
名前もわからない。
何があっても、困ったことがあっても、
お互いの事情が分からなければ、
助け合うことなどできない。
はっきり言うが、「プライバシー保護」の理念が
共同体を完膚無きまでに破壊しつつあるだろう。
もう元には戻れない。
一度プライバシー保護に安住してしまうと、
何となく安心感が醸され、それはそれで
心地よいのだが、その本質は
対人恐怖ではなかろうか。
おかげで、
うちの近所は、既に町内会が消滅した。
だが、共同体が失われれば、どうなるか、容易に
想像できるだろう。
社会がバラバラになり、
互いに無関心の「個人」の寄せ集め。
烏合の衆と化せば、
困った時に、誰が手を貸してくれるのか?
「あとは頼りになるのは金だけだ」
これが正しく現代社会の姿ではないか?
裏読みをすれば、結局、人権思想とは、
人々を「金だ!金!金くれ!」と拝金主義へと
駆り立てるためのツールだったのではないのか?
筆者は、これを仕組んだ強力で手強い悪意の
存在を確信している。
それが始まったのが明治だった。
*****
本稿のテーマは、
大きな括りでは「新地球」だった。
初回で述べたように、新地球では、
テレパシーが実現する。
さて、どうなるか?
プライバシー保護など、
まったく意味をなさなくなる。
これに耐えられない人は、別の星へ移るしか
なくなろう。
今のうちに、己の内面をひとつひとつ
折に触れて見直して行きたいと思う。
*****
当初の予定を大きく変更して、
過去に遡ってあれこれ考えてみた。
これは、書いておかねばと思ったのだ。
その意図は、ご理解いただけるかと思う。
(六)へ続く
※ 追記 2024.7.10
社会主義・共産主義は、生産手段の所有放棄
という前提条件があった。これを所有禁止と
理解するならユートピア失格であるが、
筆者は共産主義を机上の空論とは考えない。
次回以降で、また話題にする。
新地球とは?シリーズ 過去記事リンク
§1概要 §2新地球の創造をどうするか?
§3「念」で通じ合う世の中 §4菜食の世の中
以上のリンクは
https://note.com/katoyamato/n/n725146304edd
§5宇宙存在に目を向けよう
https://note.com/katoyamato/n/nfb6a4a22cd59
§5宇宙存在に目を向けよう(続き)
https://note.com/katoyamato/n/n2e866a5dd8f3
§6新地球を選ぶ人、選ばない人
§7お金も経済学も巧妙な人類奴隷化ツール
https://note.com/katoyamato/n/n81f27d752d22