真面目で結構。ヘビー上等。それでも忘れちゃいけないことが私たちにはある。
お盆休みも終盤にかかり、ちょっぴり憂鬱になりながらも、夏を余すことなく楽しもうと出かけた人もいるであろう8月15日。
あれこれ楽しみな予定もあるなか、私は毎年この日だけは、終戦記念日として過去の戦争に思いを馳せる。
昔はもっともっとメディアでも過去の戦争に関するドラマや特番が組まれていた気がするけれど、最近はあまり目立たなくなった印象がある。
いつからか正午のサイレンも無くなった。
お昼にテレビをつけてみても、人気タレントが美味しそうな料理の食レポをしたり、話題のスポットを訪れたり、賞品を掛けたゲームをしたりと楽しそうだ。
それはそれでいい。まさに平和ということなのかもしれない。
でも、本当にそれでこの先も平和は続くのだろうか。
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被爆地でもある広島市において、平和教育プログラムの教材から「はだしのゲン」やビキニ水爆実験で被曝した「第五福竜丸」に関する記述の削除が決まったというのは去年の話だ。
(この件の現在を調べてみたがわからなかった。削除されたままなのだろうか?)
メディアから、暴力シーンや性や立場における差別と思われる表現が減らされるように、戦争というグロテスクともとられかねない題材がどんどん失われていっている。
前者についてはあらゆる視点から配慮すべき観点だとは思う。
でも、後者は。
戦争は、違うんじゃないかな。配慮、とかの話じゃない。
まぎれもない歴史であり、事実であり、忘れてはいけないことだ。
きっと若い世代、いや、たとえ私より上の世代であろうと、原爆が日本に投下された日も終戦記念日もいつかわからないという人が増えているだろう。
覚えているから偉いだとかダメだという話ではない。
意識しなくなることで、人々の記憶の中から消えていく。思いを馳せることがなくなっていく。
戦争の悲惨さやむごさ、理不尽さ、醜さ、あらゆる凄惨の極みのような出来事が、忘れられていく。
忘れてしまえば、繰り返すのは簡単だ。
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「忘れることも、心を守るためには必要だ」という声もある。
それは、その通りだ。
過去の大戦がそうであったように、そして過去の震災がそうであったように、その時代に生きて、巻き込まれ、どうしようもない悲しみや体験に見舞われた人は、忘れてもいいと思う。
受け止めなくても、向き合わなくてもいい。
ただ、そこに生まれた教訓は?確かにあった事実は?
せめて、その時代を生き抜いてくれた命でつながれた私たちは、絶対に忘れちゃだめでしょう?
当事者たちが忘れても、記憶の底に閉じ込めて鍵をかけても、そこで起きた出来事や教訓まで消してしまってはいけない。
忘れたい人がいるなら、その分覚えている人が必要なのだ。
当事者に無理やり語らせろというわけでも、人の心に土足で踏み入ってまで理解しろと言っているわけでもない。
事実や教訓は、当時の新聞や資料、その後にまとめられた文献、検証など、あらゆる角度からアプローチすることができる。
その時を知る人の声ほど貴重なものはないけれど、生の声を頼らずとも私たちが学ぶことは、事務的に並べられた事実の中からでも嫌というほどたくさん見つけられる。
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過去の大戦を知る人の多くがご高齢になり、体験として記憶している人もどんどん減っている。
一度も戦争について語ることなくこの世を去った人も多いと聞く。
だからと言って「話してくれなかったから知らない。聞いたことないからわからない。」と受け取るにはあまりに忍びない。
一度も口を開くことができなかったほど、誰かに聞かせることもできなかったほど、恐ろしく悲しく、生涯心に閉じ込めておくことが精いっぱいだった程の出来事があったのだ。
「語らない」ことで「語られる」ことは確かにある。
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東日本大震災。
当時大学生だった私は、東北人の1人として震災の約半年後に1週間ほど沿岸地域にボランティアとして行った。
東北人ならすぐに行けよと思うかもしれない。
実際私も、半年後のボランティアには何が出来るか自問しながら赴いた。
震災時、東京にいた私は、被災直後から支援物資を集めるボランティアや電話回線使用に関するネットでの働きかけは行った。
でも、ボランティアの受け入れ態勢が整っても、すぐには行けなかった。
怖かったから。
知っている場所が、すっかり形を変えたのを直視する覚悟が私にはなかった。
だから、もう遅いかもしれないけど、私に何かできるならと足を運ぶまで半年かかった。
実家も、知り合いも無事だったのに、覚悟するまでそれくらいかかった。
被災地でのボランティアは、まだまだ傷跡が残る街中で、泥かきや機械が入れないような場所のがれきの処理、写真やアルバムの洗浄を少しだけお手伝いし、仮設住宅を回ってお話を聞くという内容だった。
当時のニュースを見ただけで、被害状況を聞いただけで、日々増えていく死者の数を知るだけで、被災直後にボランティアに入った人たちの話を聞くだけで、どうしようもなく重たく辛い気持ちになっていたから、わざわざ被災者の方から話を聞きたいとは思っていなかった。
”聞きたくない”のではない。
「話したい」「聞いてほしい」という人がいるなら無限に耳を傾ける。
でも、経験や記憶を話すことを義務のようには思わないでほしかった。
ボランティアをありがたがらなきゃいけないとも思ってほしくなかった。
何も話す必要なんてなかった。
街を失い、家を失い、多くの知り合いや家族を失い、慣れない土地の狭い仮設で暮らす状況だけで、それがどれだけ心身ともに大きなダメージを受けたかは、理解はできないとしても想像はできたから。
だからこそ私は、波に飲まれ、まっさらになった街を目に焼き付け、当時の事実や記録を自分で調べ、被災時の対応による被害の差や、被災後の人々が困ったもの・役立ったもの、避難後に生まれる問題点などを教訓として学ぶことにした。
犠牲となった方々が命をかけて、被災された方が人生をかけて教えてくれたことを忘れないことが、1つの報いになればと願う。
これも私のエゴなのだけど。
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時代の雲行きは怪しい。
世界中で今も戦争は繰り返され、そして、この国もどうにもザワザワしている。
遠くの方で、よからぬ足音がしているような気配がある。
始まってからでは遅いことを、私たちは知っているはずだ。
大きなうねりが勢いをつけてしまったら、もうどん詰まりに行きつくまで誰にも止めることができない怪物になってしまうのが戦争だ。
自分には関係ないことなんてない。
大事な家族も、友人も、子どもたちも、吹き飛ばされるように殺されてしまうのが戦時下では正義にもなりうるのだから恐ろしい。
勝者と敗者が生まれれば、たとえ国際法に違反しても、極悪非道の限りを尽くしても、誰にも裁かれず知らん顔だって出来てしまうのだ。
この手の話をした時に
「真面目だね~」「ちょっとヘビーすぎない?」
と軽く笑われながら言われたことがある。
真面目でいい。ヘビーでいい。
私は、私も私の大切な人たちの命も、誰の命も戦争の犠牲になってほしくない。
人生を豊かで幸せなものにして全うしてほしいと切に願う。
誰にも殺されてほしくないし、誰も殺してほしくない。
だから、バカにされても引かれても、戦争は繰り返しちゃいけないし、再び起こさないために忘れちゃいけないこと、知らなきゃならないことは確かにある。
そして、それを未来に残していかなきゃいけない。
戦争で儲かる一部の人たちのために、多くの人たちの命が道具にされるのを許していいわけがないのだから。