共感
「ムリをしないこと」。数か月前に主治医からそう言われたとき、私は心の底から驚いた。私には自分が無理をしているという感覚が全くなかったからだ。アラフォーで子供がいて、無職の私が一体何を無理しているというのか?そのときの私は調子が良いと感じていたし、少し苛立ちを感じながらも主治医に反論した。「いま、この状態で私が無理しているように見えるなら、私はずっと無理してきたことになる」と。「私にはこれが当たり前の状態で、ずっとこう生きてきた」「無理をしているとしても、そもそも普通の状態がもうわからない」「先生はどこが無理をしているように見えるんですか?」と半ば突っかかるように問いただした。
主治医は少し困った表情を浮かべながらも、トーンを落として「表情がね…」とだけ言った。私の苛立ちをなだめるように、その後少し憐れむような目で私を見つめながら「〇〇さんは今まで本当に辛かったと思います。いまも頑張って話しているでしょう?」と静かに続けた。
その言葉を聞いた瞬間、私は驚き、そして言葉を失った。確かに、その通りだった。私はずっと辛かったし、頑張って話していた。でも、これまでの人生でそんなことを誰かに言われたことは一度もなかった。両親とでさえ、私は「頑張って話していた」自然な表情で会話することができず、常に頭で考えながら言葉を選び、表情を作っていた。誰と一緒にいても心が休まることはなく、心を開くという感覚自体がもう分からなくなっていた。
そのような状態でありながら、私は「調子が良い」と感じていた。これが私の「普通」だったからだ。私にとって、無理をすることは日常の一部であり、それが自分を支えていると信じていた。しかし、主治医はその「普通」がどれほど不自然で、どれほど私を疲弊させているかを初めて指摘してくれた人だった。
私が無理をしているということに気づかなかったのは、無理が日常に溶け込みすぎて、感覚が麻痺してしまっていたからだと思う。主治医が「表情がね…」と言った時、彼は私の微妙な変化や、言葉に出せない苦しみを見抜いていたのだろう。そして、それに対して共感し、私の感情を初めて認めてくれた。その言葉が私の心に深く響いたのは、当然のことだったのだ。
この経験は、私がこれまで抱えてきた無意識の負担や、常に頑張り続けることがどれほど自分を苦しめてきたかを改めて考えるきっかけとなった。無理をしないこと、心を休めること、そして自分を大切にすることが、私にとってこれからの課題なのかもしれない。主治医が私の内面を理解し、共感してくれたことで、私は少しずつでも心の重荷を下ろし、もっと自分自身を大切にしていくべきだと感じ始めた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?