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普化禅師ってどんな人?☆やっぱり狂人?奇人?それとも偉人?
普化禅宗の「開祖」、普化禅師は、一体どんな人なのか?!
普化禅師のことは『臨済録』『祖堂集』『景徳伝灯録』等に書かれている。
『臨済録』は、中国唐代の禅僧で臨済宗開祖の臨済義玄の言行をまとめた語録。詳しくは『鎮州臨済慧照禅師語録』。
『景徳傳燈録』は、中国・北宋代に道原によって編纂された、禅宗を代表する燈史。
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「元信画集」国立国会図書館蔵
以下、『景徳傳燈録』より臨済と普化のやりとりを読んでいきます。
盤山禅師は遷化(高僧が死ぬこと)にあたって門下の衆僧に告げた、「わしの肖像を描きうる者はあるか」
「真」(肖像)を写すということには、師の真面目 (1) を如実に我が物にするという意が含まれている。だが僧たちはみな目に見える師の似姿を絵に描いて提出し、ことごとく師から打ちすえられてしまった。そこで弟子のひとり、普化が出てきて申し上げる、「それがしには描けます」「なら、わしに出して見せぬか」そこで普化はひょいとトンボがえりを打って、さっさと出ていってしまった。
盤山はいった、「この男、いずれ”風狂”のごとくに人を教化していくに相違ない」
【真面目(しんめんぼく)】本来の姿・ありさま。転じて、真価。
「それがしには描けます」と言って描いた絵が全く予想だにもしないものだった❗というオチではないところが普化禅師。「そんなことしてもムダ、不可能」ということを普化禅師はとんぼ返りで表現したのでしょうか。
以下『臨済録』より
臨済が始めて臨済院の住職になった時、普化に会って言った。
「わしが南方にいて、潙山 (1) に書状を持って行った時に、そなたが先にこの地に住んでわしが来るのを待っていてくれると仰山 (1) に教えられた。そしてそなたの協力を得ることになった。わしはこれから黄檗の宗旨 (2) の功績をたたえ世間に広めようと思う。どうかわしに力添えしてもらいたい」普化は、では失礼、と言って退出した。
克符 (3) が少し遅れてやって来た。師は同じように言った。克符も、では失礼、と言って退出した。
三日あと、今度は普化が師のところに来て挨拶して言った、「和尚は先日なんと言われましたかな」師は棒を取り上げるなり打って追い出した。
また三日すると、克符もやって来て挨拶して言った、「和尚がこの前普化を打たれたのはなにごとですか」師はやはり棒で打って追い出した。
【潙山】、【仰山】とも唐代の禅僧。
【宗旨】その宗教・宗門の教えの中心になっているところ
【克符】克符禅師、臨済下第二世。生卒年未詳。
克符禅師もなかなかの人だったようです。
しかし、棒で打って追い出すとはこちらもなかなか手荒な臨済禅師です。
師はある日、普化と共にお斎に信者の家へ招かれて行った時、そこで問うた「一本の髪の毛が大海を呑みこみ、一粒の芥子の中に須弥山を収めるというが、これは不思議な神通力なのか、それとも本体のありのままなのか。」普化はいきなり食卓を蹴倒した。師「なんと荒っぽい!」普化「ここをどこだと思って荒っぽいの穏やかのと言うのか。」
その翌日、また師は普化と共にお斎に招かれた。そこで問うた、「今日の供養は昨日のと比べてどうかね。」普化はやはり食卓を蹴倒した。
師「それでよいにはよいが、荒っぽすぎるな。」
普化「盲め!仏法に荒っぽいの穏やかのがあるものか。」
師は舌を巻いた。
<一筋の毛が>『維摩経』(大乗仏教経典の一つ)の説にもとづく句。特徴的なのは、不二法門といわれるもので、互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、我と無我、生死と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく一つのものであるという。(柳田聖山訳注)
臨済禅師に荒っぽすぎといわれる普化禅師もなかなかです。
ある日、師は河陽と木塔という二人の長老と一緒に僧堂の囲炉裏を囲んでいたとき、「普化は毎日、町の中で気狂いじみたまねをしておるが、いったい凡夫なのだろうか、それとも聖者なのだろうか」と噂をしていた。すると、その話しの終わらぬうちに普化が入って来た。そこで師は問うた「そなたは凡夫なのか、それとも聖者なのか。」普化「あんた言ってみなさい。おれは凡夫か聖者か」そこで師は一喝した。普化は三人を指ざしながら言った「河陽は花嫁、木塔はおしゃべりお婆さん。臨済は小僧っこながら、いっぱしの目を持った子だ。」
師「この悪党め!」普化は「悪党だ!悪党だ!」と言って出て行った。
質問には答えないのが禅のやり方ならば今の与党政治家はこれを手本にしているのか⁉
ある日のこと、僧堂の前で、普化が生のままの野菜を食っていた。それを目にした臨済がいう、
「やれ、まったくロバのような。」すると普化は、すかさずロバの鳴き声をした、臨済、「この悪党が!」普化は「悪党だ!悪党だ!」と言いながら、そのまま出て行ってしまった。
「悪党が!」と言われると「悪党だ!悪党だ!」と立ち去るのは普化禅師の毎度のパターンのようです。
最後に有名な普化の棺桶の話です。
ある日のこと、普化は街中で人々に僧衣を乞うた。人々はそれを布施したが、普化はどれも受け取らなかった。そこで臨済は院主に命じて棺桶一式を買い整えさせた。やがて普化が寺にもどって来る。
臨済「おぬしのために、衣をあつらえてあるぞ。」
普化はさっそく自分でその棺桶をかつぎ、街中にふれてまわった。
「臨済がわしのために衣をあつらえてくれた!わしはこれから東の城門へ行って遷化する」。
街の人々は先を争って、物見高くついてゆく。すると普化はいう。
「今日はまだ、だめだ。明日、南の城門のところに行って遷化するといたそう」
こうして三日つづき、もはや信じる者もいなくなり、四日目にはとうとう、誰もついて来なくなった。
普化はひとり城門を出て、自分で棺桶に入り、通りすがりの者に釘で打ちつけてもらう。噂はあっという間に鎮州の街中に広まった。
街の人々は、我さきに駆けつける。そしてその棺桶を開いて見たところ、なんと普化は、身ぐるみ消えてしまっていた。
空中で鈴の音が、リンリンと鳴りながら去っていった。
『祖堂集』(952年)では、臨終の際は墓のトンネルをレンガで塞いで亡くなったとのこと。『祖堂集』が普化に関しては最も古い記述かもしれないそうです。(柳田聖山「禅思想」参照・神田可遊著「虚無僧と尺八筆記」より)
「墓に入る」をまさに自ら実現した、誰にも迷惑をかけない死に方。『臨済宗』の普化禅師の終わり方は、ちょっとファンタジーじみていますが、何だかカッコいい終わり方になっています。尺八研究家の神田氏も指摘されていますが『祖堂集』も正確な記録ではないにしても明らかに『臨済録』は脚色されているようの思えるとのことです。
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さて、
普化禅師のことが書かれたものは、今のところこれで以上です。
『臨済録』等にわざわざ普化禅師を登場させて、臨済をしてやっつけるような言動を書き残すということは、よほど重要な存在なんだと思います。ただの変わり者ではなさそうです。
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出典元不明
十八描法の描き方の本のようです。
臨済宗国泰寺派 吉祥寺 副住職の山田 真隆氏のサイトに、普化禅師のことが登場しておりましたのでご紹介。
『臨済録』を読んでいて興味深い所としてもう一つ挙げられるのが普化という僧の存在です。鎮州で臨済と活動を共にしますが、普化の行動の多くが奇行・愚行と呼べるもので、例えば臨済と二人で在家の宅へ食事に行った際、お膳をひっくり返したり、生野菜をかじってロバの真似をしたり、毎日街路に出ては何やら唱え物をしながら鈴を振って歩いてみたりというものです。
これも、馬祖の牛のようにノソノソ歩いたということや、黄檗の礼拝こぶがあったということと同じく、一見愚行のように見える行いの中に真理にあると見る中国的思想の現れで、頓悟禅の体現ということになります。
後の北宋代に臨済宗が一大発展し国家仏教化した時、宗祖としての権威付けから、こうした従来の頓悟禅の体現を臨済が語録の中でできなくなったため、その代役を果たしているのが普化といえるでしょう。
https://zenzine.jp/learn/mastersofzen/2912/
【頓悟・漸悟】とは、
仏教用語。ただちに悟りの境地に達することを頓悟,順を追って次第に悟りに近づくことを漸悟という。またすみやかに悟りの境地に入ることを頓証菩提という。法相宗では修行の段階である声聞,縁覚の位を経ないで,いきなり菩薩の位に入るときには頓悟の菩薩として区別した。また中国の禅宗では,南方に広まった慧能の禅風を頓悟,北方の神秀の禅風を漸悟と呼び,南頓北漸といった。その後南宗禅が栄えたため,現在伝わるものは頓悟的な禅である。
ふむふむ、普化禅師のあの行動は、中国的思想と歴史的な背景も考えられるんですね。
何にもとらわれない普化禅師。この世間を超越したかのような奔放ぶりには現代を生きる私にも一種の憧れを感じますが、中世当時の日本にも同じような思いの人々が存在し、こうして普化宗生まれたんですね。
最後におまけですが、
「普化」と聞き慣れない名前。
実は漢字ひとつひとつの意味を調べてみると、結構すごい名前なのです!
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やっぱり、普化禅師、名前からしてすごい人なんですね…。
普化禅師が唱えた『四打の偈』についてはこちら!↓
参考文献
入谷義高訳注『臨済録』
柳田聖山著『臨済録』
小川 隆 著『臨済録-禅の語録のことばと思想-』
神田可遊著『虚無僧と尺八筆記』
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