本をもらう、本をあげる|工藤郁子さんが選ぶ「絶版本」
私淑する先生は、いつもにこにこしながら峻しいことを言う。「自分の研究の独創性を過大評価せずに、自分は平凡な論文を書くよりも重要な本の翻訳をした方がよいのではないかと真剣に自問すべきです」。
私は純朴なので、ちゃんとたまに自問している。大抵は「渡世の義理」と弁明する。または、重要な本の広め方にも色々あって、研究であれば、先達を倒そうとする後進の批判という形もとれるはずだと答える。しかし、芯をとらえた返しでないことも薄々わかっている。
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昨年末、絶版本に関する雑誌企画がSNS上で批判される出来事があった。
入手困難な既存書籍のタイトルから内容を想像するという特集に対しては、「読んでみたい」「何が悪いのかわからない」という意見もあったが、版元の早川書房SFマガジン編集部は中止を発表して謝罪した[1]。
批判を読んでみると、早川書房が多くの絶版本を抱えているのに、それを「エンタメ」化しようとした点に憤っている人が多かった。その前提には、本の永続性という考えがあるように思う。
社会哲学を専門とする稲葉振一郎さんがこの連載で指摘する通り、書物という特殊な財は、一冊一冊は消費財でも、その総体は耐久財として、永続することが理想とされる[2]。つまり出版社は、ある程度、本の永続性にコミットすることが求められる。
本件では、早川書房がこの約束事を軽視し反故にしたと捉えられたため、多くの人が傷つき反発したのだろう。
ところで、本の永続性という考えは、図書館をつくる前提にもなっている。
絶版本をインターネットで閲覧できるサービスが、国立国会図書館のウェブサイトでもうすぐ始まる[3]。関係者の尽力のもと、著作権法を改正したので、できるようになった。本の永続性という考えを制度として実装したものだ。漫画や商業雑誌などは対象外だそうだが、これで知の散逸に関する懸念[4]にもある程度応えられるだろう。
しかし、そもそもなぜ本は永続性が期待されるのだろうか。
理由の一つは、土木建築や通信網と同じように、思想もまた社会のインフラだからだ。その適切な維持管理・更新のために、本は永く必要とされる。
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「経済思想や政治哲学は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはない。自分は現実的であって、どのような思想からも影響を受けていないと信じているものも、いまは亡き学者の奴隷であるのが普通だ[5]」というケインズの言葉を教えてくれたのは、酒井泰斗さんだった。
酒井さんは、読書会や進捗報告互助会の主催などを通じて研究者支援をしている珍しい人だ。さらに輪をかけて変わっているなと思うのは、そうした活動を「消費者運動」と位置付けているところだ[6]。人文・社会科学系の研究成果物の享受者として、「生産過程」に介入することで「品質管理」をされている。
そんな酒井さんに誘われて、紀伊國屋書店新宿本店を舞台に、人文書・専門書を主に紹介するブックフェアをすることになった[7]。『在野研究ビギナーズ』という共著の刊行記念だったが [8]、絶版本を含む既刊本を中心にしていた。本は、単独というよりもむしろ、ほかの本との連関のなかで読まれるほうが実り多いとの方針だったからだ。
結果から言えば、ブックフェアは異例の売上記録を残し、版元品切れ1冊を含む4冊に重版がかかった。
とりわけSNSとの連動がうまくいった。「Tweet→売上増加効果は未知のレンジ[9]」と評された。選書者の一人が推薦文を投稿すると在庫が瞬時に吹き飛ぶさまから「読書猿砲[10]」との異名が定着したりもした。その後、ベストセラー『独学大全』をものした読書猿さんは、その力を自覚的にふるうようになり、『現代文解釈の基礎』といった名著復刊を成し遂げている[11]。
もっとも、ブックフェアで特別なことはしていない。紀伊國屋書店さんより売上に関する統計情報を共有してもらい、選書者でありマーケティングの専門家でもある朱喜哲さんの力を借りて、売上データを分析し、それに基づいて、店頭POP作成やSNS上での宣伝を行い、次回の売上データで施策の効果をみて、打ち手を考えるサイクルを繰り返す。マーケティングや広報の定石を忠実に実行しただけだ。
しかし、この業界では珍しかったのかもしれない。
八重洲ブックセンター社長の山崎厚男さんが、「マーケットインということが、コロナ以前からよく言われる。これだけ連呼されるということはいまだにできていないことなのだろう。他業界の人が聞いたらびっくりするのではないか[12]」と述べていたが、たしかに少し納得する部分があった。
その後、マーケティングとしては一見不十分に思えることがなぜまかり通っているのかに興味を持って、出版産業史に関する本や書店員さんのお仕事エッセイなどを読んだ[13]。出版流通産業の特殊性を知り、致し方ない面もあると理解した。
ただ、はたから見ると、本を贈り届けようとする気持ちが強すぎるあまり、プロダクトアウトに偏重している気がする。川下にある海の豊かさが還元されないのは惜しい。読者は、物静かに知や文化を享受するだけでなく、能動的にアクションを起こせる参画者でもある。私費をはたいて本を買い支え、図書館へのリクエストで蔵書を充実させ、手弁当で名著を宣伝し、本を薦める動画をあげ、読書会を開いて語り合う。そういったコミュニケーションやコミュニティは、さまざまな生き物を宿す青い海のようだ。河の流れを受けとめ、命を育み、循環し、やがて慈雨となって水源をうるおす。
そして、新刊も既刊も、古書も絶版本も、区別なくたゆたう海でこそ、自問では得られなかった答えをもらえたりする。
とはいえ、プロの編集者がいなければ締切から逃げおおせるだろう人間には、商業出版が必須だ。大した才能もない私のような者が、そこそこの仕事を、逃げ出したり燃え尽きたりせずに続けられるよう支援してくれる仕組みは、ZINEやSNSというよりも、出版ビジネスの側にあると思う。
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冒頭の先生は、森村進さんという。法哲学者として名高いが、最初の本は法思想史で、隣接分野だった。進路変更の要因には、失望があったと先生は述懐する[14]。
絶版にさえなれない本[15]、本にさえならなかった何かに思いを巡らせるとき、関心を寄せて励ましを届けつづけるエコシステムの重要性に気づく。
人も書も、時という強大な力の下では必ず敗れるが、黄金の精神は受け継ぐことができる。それを駆り立てる力が、出版というビジネスにはまだある。