ホームシックについて|帝国の追放者たち|ウィリアム・アトキンズ【試し読み】
2023年6月22日に、英国の紀行作家ウィリアム・アトキンズ氏による『帝国の追放者たち——三つの流刑地をゆく』(山田文 訳)が配本されます。かつて「帝国」と呼ばれた大国の「流刑地」だった三つの島を旅しながら、いまなお残る歴史的な傷跡と亀裂を浮かび上がらせた一冊です。
本書はある流刑囚三人の物語です。すなわち──フランスによってニューカレドニアへ送られたパリ・コミューンの闘士、ルイーズ・ミシェル(1830-1905)、イギリスによってセントヘレナへ送られたズールー人の王、ディヌズールー・カ・チェツワヨ(1868-1913)、ロシアによってサハリンへ送られたウクライナの人民主義者、レフ・シュテルンベルク(1861-1927)。より大きな自由とホームの理念のために、目の前の自由とホームを犠牲にした者たちの生涯を著者は辿るのです。三人の選定理由について、訳者あとがきから引用してみましょう。
「人生がふたつに引き裂かれたとき、自分を保つのはときにむずかしい」と著者は書きます。故郷を追われるという経験は、当人にとって何を意味するのでしょうか。あるいは、故郷を追われた者を受け入れるという経験は、その土地に根づく人びとに何をもたらしたのでしょうか。そう、本書は追われた者たちの物語であると同時に、それを受け入れた土地に生きる者たちの物語でもあるのです。
しかし、その歴史はかつてのものであり、いまを生きる私たちとは無関係ではないか? と思う方もいるかもしれません。そうではない、ということもまた、本書では示唆されるのですが、ここでも訳者あとがきから引用しましょう。
弱い立場にある者が望まぬ移動と隔離を強いられる現代に放たれた、過去と現在をつなぐ紀行文学。本稿では特別に、プロローグを全文公開します。
プロローグ ホームシックについて
一冊の本のはじまりはとらえがたい。それがつくられた土のなかをのぞいて根をたどろうとすると、ほぼ無限に枝分かれしている。だが、ふたつのイメージがいまも鮮明に残っている。二〇一六年夏、ギリシャの海辺に打ち捨てられた何千もの救命胴衣の写真が、ニュースサイトをにぎわせていた。トルコからエーゲ海を渡った移民が捨てたオレンジ、黄色、青、黒の巨大堆積物。その数か月前にアリゾナ州の砂漠を歩いていたとき、道端や干あがった川床でリュックサックの山に出くわした。近くにあるメキシコとの国境をひそかにこえた、中米やその他の場所からの移民が残したものだ。およそ一万一〇〇〇キロメートル離れたこのふたつの山は、いまの時代に固有のものであると同時に、場所を追われた人間の歴史すべてを雄弁に物語ってもいた。
わたしはまちがっていたと考えるようになった。不幸のいちばんの原因は孤独だとずっと思っていたが、そうではなく、ここではないどこかへ行きたいという望みなのではないか。かつて場所を追われた人、つまり政治的な理由で特定の場所へ送られた流刑者は、移住、国外追放、抑留の話だけではわからないことを示してくれるのではないかと思った。「故郷」ということばについて。帝国の振る舞いについて。世界を動かしているように思える、去ることととどまることの葛藤について。
古代ローマまでさかのぼるこの流刑のかたちは、一九世紀終わりに復活した。これは帝国的な追放と呼べるかもしれない。追放する側の権力が中心地から遠く離れた領土を支配していること、それが求められる条件のひとつだからだ。したがって、最終的にわたしが取りあげた三人がヨーロッパの帝国建設の最盛期に生きていたことと、追放先が離島だったことは偶然ではない。フランスのアナキスト、ルイーズ・ミシェル。ズールー人の王、ディヌズールー・カ・チェツワヨ。ウクライナの革命家、レフ・シュテルンベルク。この三人はそれぞれ、より大きな自由とホームの理念のために、自由とホームを犠牲にした。ミシェルは短命に終わった社会主義政府パリ・コミューンの顔として。ディヌズールーはズールーランドのイギリス植民地主義の敵として。シュテルンベルクはロシアの帝政の転覆を狙う戦闘的な活動家として。
わたしがこの三人にひかれたのは、いま強く吹いている三つの風──ナショナリズム、独裁政治、帝国主義──にそれぞれの人生がかたちづくられていたためであり、科された刑にそれぞれが個人として対処したそのあり方のためである。三人とも追放の潰滅的な影響を吸収し、祖国の喪失によって義務感を鈍らせることなく、むしろ研ぎすましたように思われる。わたしはこの三人に敬意を抱いた。とりわけ追放先の島から水平線を──つまり未来を──見つめつづけるその力に。ミシェルは南太平洋のニューカレドニアから。ディヌズールーは南大西洋のセントヘレナから。シュテルンベルクはシベリアの極東海岸沖のサハリンから。
三人のうち有名といえるのはミシェルだけで、その彼女の名すらフランスの外ではあまり聞かれない。流刑地もわたしが知っていたのはセントヘレナだけで、それはもっぱらかつての流刑者、ナポレオン・ボナパルトとのつながりのためである。この三つの島は、歴史の主流から大きく外れたところにあるようだ。しかし、アリゾナでわたしは知った。多くの場合、辺境の地は、首都──パリ、ロンドン、サンクトペテルブルク、ワシントンDC、ローマ──の権力が最も本質を露わにし、あからさまに表現されている場にほかならない。この三つの島を訪れれば、調査対象の三人にとっての流刑の意味だけでなく、場所を追われること自体の本質も理解するきっかけをつかめるのではないかと思った。
本書はある意味では、流刑によって粉々に砕かれた人生を現地で集めてまとめた物語集だともいえる。しかし本書の核をなす三つの旅をするにあたってわたしは、限定された意味においてのみ伝記作家として出発した。関心があったのは、人生の歩みよりも、流刑の経験によってその人生にできた亀裂をたどることである。旅をするなかで、そうした亀裂がほかの人たちの人生に深く侵入し、いまなお侵入しつづけているのを目のあたりにした。生者であれ死者であれ、出会った人の多くは本人もまたなんらかの意味で流刑者であり、失った居場所を切実に求めている人もいれば、居場所のなさと折りあいをつけて暮らしている人もいた。
三つの旅をひとつに束ねる導き手とわたしが考えるようになったローマの詩人オウィディウスは、二〇〇〇年近く前に黒海に面した都市トミス(現在のルーマニアのリゾート地コンスタンツァ)へ流刑に処された。追放の理由──「一篇の詩とひとつの過ち」──はいまなおあいまいだが、そのあいだに彼が書いた郷愁に満ちた自己憐憫的な書簡体の長詩は、流刑に処された文学者によるテキストの嚆矢のひとつに数えられる。「墓の名誉もなく[…]泣く人もないままに、蛮族の地に埋められる」〔木村健治訳〕のを恐れ、オウィディウスは自身の墓碑銘まで起草した。
だが、この切実な望みはオウィディウスだけのものではなかった。トミスは物騒な植民地であり、この町で生まれ育った者も地元の悪党によく誘拐された。「ある者は捕虜として後ろ手に縛られて追い立てられていく、/虚しくも畑と家を振り返りつつ」。この〝家〟ということばからは、次のことに気づかされる。追放される者はたいてい自分の世界の中心を離れて周縁へ向かうことを強いられるが、追放先の場所はどこも、ほかのだれかにとっての中心である。「ここでは私が〝蛮族〟だ」とオウィディウスは認める。
一九一四年までに太平洋の全域とアフリカのほとんどが植民地化されていて、その広大な土地を占領するひとつの手段が刑罰としての国外追放だった。一般の既決囚であれ政治的な反体制派であれ、流刑者が単なる囚人であることはほとんどなかった。流刑者は異国の地から富を搾りとる手段であり、その土地に立てられた旗でもあったのだ。追放と強制移住は、いつでも帝国の兵力の一部だった──ローマ世界の果てに追放されたオウィディウスもまた、自分が単なる流刑者ではなく「不安な居住地の新参の住民」であることをよろこんでいた。ときには被植民者と流刑者が共通の目的を見いだすこともあった。たとえば「カナックの反乱」では、ニューカレドニアへ永久追放されていたルイーズ・ミシェルは、島の先住民を共通の敵に対する盟友と見なすことができた。フランス植民地政府は、コミューン支持者とカナックを、種類は異なるがいずれも馴致すべき野蛮人と考えていた。
本書は流刑者のことを考える一冊として企画されたが、それと同じくらい帝国についての本にもなった。両者はつねに分かちがたく結びついているからだ。それゆえ本書はまた、帝国の双子の犠牲者のあいだにかたちづくられた連帯についての一冊でもある。〝流刑者(déporté)〟と〝先住民(indigène)〟、すなわち追放された市民と植民地化された被支配者のあいだの連帯である。
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一六八八年、ベルン〔スイスの首都〕の若き医学生ヨハネス・ホーファーが『ノスタルジアすなわちホームシックについての医学論文』(Dissertatio Medica de Nostalgia, oder Heimwehe)という学位論文を書いた。ホーファーがいうノスタルジア──彼がつくったことば──には、感傷的な郷愁の念という現代の意味はない。はるかに有害な何かであり、それを病理として位置づけようと、一連の特殊な症状と思われるものにこの新しい名をつけたのだ。
「苦しむ若者たちの話を思いだした」とホーファーは書く。「生まれ故郷に連れ戻されることなく、熱に浮かされたり、〝消耗性疾患〟によって衰弱したりして、異郷で最期の日を迎えた者たちである」。正しい座標から身体を引き離すと、人は酸素のない惑星にテレポートさせられたのと同じぐらい確実に死ぬとでもいうかのようだ。
ドイツ語でハイムヴェー(Heimweh)、フランス語でマル・デュ・ペイ(mal du pays)と呼ばれる症状──すなわちホームシック、祖国への郷愁の念──は、「医学では特別な名前がつけられていない」とホーファーは言う。そこで、「ノスタルジア(nostalgia)」とそれを名づけた。古代ギリシャ語のノストス(nostos)、すなわちオデュッセウスがした故郷へ向かう王の旅と、痛みを意味する結合辞アルゴス(algos)からつけた名である。故郷への旅をできない痛み。ホーファーはそれを「故郷の失われた魅力に対する悲嘆」と説明する。それは「とりわけ、思いだされた故郷という、尋常でなく消えることのない観念が喚起されることで生じる」。そして、ベルン出身でバーゼルへ学びにいった学生仲間のことを語る。「かなりのあいだ悲しみに暮れていて、やがてこの病に取りつかれた」。命が脅かされているようだったので、彼は故郷へ送り返されることになった。「われわれの街から数キロメートルのところで」とホーファーは話をつづける。「あらゆる症状がすでに緩和されていて[…]十全かつ正気な彼に戻った」
この健康状態は空間だけでなく時間とも関係していた。失われたのは故郷だけでない。そこで生きられたはずの人生もまた失われたのだ。
症状は次のとおりである。「絶えることのない悲しみ、祖国のことばかり考える状態、眠れなかったり眠りが断続的になったりする睡眠障害、体力の減退、空腹、渇き、感覚の衰退、不安や場合によっては動悸、頻繁なため息、思考の鈍化──祖国のことを考えるほかは、何ごとにもほぼ関心を示さない」。ホーファーは解毒剤として「眠気を誘う内服用の乳剤」や「頭部に塗る外用の香膏」を勧めるが、実のところ治療法はひとつしかない。「帰郷の旅の負担に耐えられそうなところまで体力が回復したら、故郷へ戻る希望がただちに与えられなければならない」
トミスで綴った詩でオウィディウスは、追放が健康に与える影響にくり返し触れている。「ここの気候も水も土地も空気も、私には合わないのだ。/ああ、私の体はたえず病に冒されている!」。ほかのところでは、自分に科された刑をある種の手足の切断として描いている。「まるで手足を後に残していくかのように、私は身半分引き裂かれ[…]」
故郷に送り返された学生について、ホーファーが「十全(integraeque)」な彼に戻ったと書いたのは、それなりの意味があったわけだ。
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本書は流刑によって打ち砕かれた人生を組み立てなおす試みともいえると書いた。しかし、三人のものであれ、わたし自身のものであれ、ここに記す旅は、いかなる人生も自己もひとつの統一体ではないことに気づかせてくれた──たとえその人生や自己が歴史から切り離されているように見えたとしても。わたしが旅をしているときに父が体調を崩した。父の病と衰えが、これから語ることに影響を与えているのが自分でもわかる。本書は死やグリーフについての本ではないが、旅行記はどれもある種の寓話にほかならない。流刑者の物語にわたしたちが心動かされるのは、ひとつには、人生における癒えることのない断絶──離別、喪失、死別──を受けとめてもらえるように思えるからだ。たとえ自分自身が生まれ故郷の村を一度も離れたことがなくても。