三隅美奈子氏五行歌集『博物詩』(市井社)
こんにちは。南野薔子です。
五行歌の会同人の三隅美奈子さんが初の五行歌集『博物誌』を出版されました。
その感想となります。よろしければどうぞ。
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装丁のシンプルさが目をひく。地味目の分野の専門書、といったたたずまいだ。けれど『博物詩』というタイトルが示すように、歌われている内容は多岐にわたり、また、おそらくそれらに対して著者がある種のニュートラルさを保ちたいという意思もあるのだろうと感じた。だから、タイトル以外に、内容を暗示するようなものは必要ないのだ。もっとも、カバーをめくれば、とあるイラストがあらわれる。だがそれも、内容のイメージを限定するよりはむしろ広げてくれるようなものだ。
タイトル通り、さまざまな事物が歌われる。章タイトルはすべて、簡潔に漢字一文字。「虫」「花」「人」「季」……。時に文学や芸術などの引用やイメージを盛り込み、豊富な知識と経験によって培われた表現力で綴られた歌たち。
だから、基本的には、大人の認識力で書いている歌集と云えるのだと思う。が、著者のものごとを見つめる目には、大人が持ちがちな型から自在に離れる柔軟さもある。こんなことをこんな視点で、こんな比喩で、とはっとさせられる歌も数々ある。
炎天の
己の影より
なお 暗く
中空にある
烏揚羽
星は昼
ここにかくれているらしい
柊が
星の香りで
咲いている
ひとつ事を
「思い出」とせば
刺繍の表
「過去」としなせば
刺繍の裏
影と烏揚羽の比較、星と柊の類似性、刺繍の表と裏の質感の違い、こういったものを鋭く見つけ出すのは、子どもの柔軟な目ではないかと感じている。それを、大人としての高度な洗練をくぐらせて歌として磨きあげる。
ユング心理学の概念で「老賢者」というのがある。心の中には、意識に存在する「自我」とは別に、無意識まで含んだ心全体の中心である「自己」というものがあり、老賢者のイメージはその自己の象徴だという。神話や伝説にあらわれる仙人や老いた賢い魔法使いといった存在。ただ、老賢者は子どもの像としてあらわされることもあるという。この歌集の歌は、その老賢者と子どもという、反対でありながら同一であるあり方を思わせる(ちなみに老賢者はユング心理学の本など読むと男性の理想型として言及されていることも多いが、男性女性の区別をつけることは特にこの頃の世界ではあまり意味はないのではないかと思う)。
子どもでもあり賢者でもある鋭く確かな目は時に世界の姿を容赦なく象徴的に描き出す。
地球は発熱していた
人は気づかぬふりをして
空調のきいた部屋の中
明るい色のクレパスで
夢の続きを描いていた
上記の歌は過去形であるところにぞっとするような怖さがある。
ソファーに寝そべり
ジャンクフードをつまみながら
作家渾身の一冊を飛ばし読みする
この残酷な贅沢
気分は 今 西太后
何もできない私が
地上を覗く神のように
惨状を
映像で見ている
この恐ろしさ
上記二首は、前者はユーモラス、後者はシリアスという作風の違いはあり、また歌われている対象も異なるが、自らを批判的に見ている眼差しは通底している(後者の歌は特に今の世界状況には響く歌だと思う)。
著者の中にある子どもの目はもちろん著者の子ども時代の記憶にもその根を豊かに張っていると思う。そういった記憶をみずみずしくあらわした歌も好きだ。
秋の色とて
思い出す
夜更けても灯る
駅前果実店の
白熱電球
時も
道草していたんだね
遊んでも遊んでも
暮れなかった
子供の頃の夏の日
そして私が、あらわしたいと思いつつあらわせなかったなあ、と思うことを書いてくれている歌。
この寂しさを
喩ふれば
日曜の午後
綱ひきて中空にある
アドバルーン
アドバルーンの持つ独特のさびしい雰囲気を、そうか、こう書けばよかったんだ、と、ちょっと悔しい気もしている。
ここに取り上げきれなかった印象的な歌も数多いし、この歌集は「全体」としてひとつの世界なのだ、という感がとりわけ強い一冊でもある。著者渾身の一冊をこうやって飛ばし読みならぬ「つまみ書き」してしまっている私も、西太后であるような気もしている。