水源純五行歌集『まだ知らない青』(市井社)
こんにちは。南野薔子です。
栢瑚五行歌部(仮)のメンバー水源純さんが『この鳩尾へ』『ほんとう』『しかくいボール』(いずれも市井社)に続く四冊目の五行歌集『まだ知らない青』を出版しました。
その感想となります。よろしければどうぞ。
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ずいぶん前のことになるが、ネット上で五行歌関係の話をしていて、私は「丸くなりたくない」と云ったことがある。その前後の文脈は忘れてしまったけれど。そうしたら純さんは「私は丸くなりたい」と云った。それがすごく印象に残っている。純さんは私より九歳も若く、また当時は十分に「若手五行歌人」として通用する年齢だったかと思う。そんなに若いのに「丸くなりたい」って云えるのってなんだかすごいな、と思ったから印象に残っているのだ。
『まだ知らない青』においては、跋で五行歌の会主宰の草壁焔太氏も述べているが「まあるい」という言葉が存在感を放っている。
ことばの奥に
在る
まあるいものを
やりとりしているような
私たち
漬物石のような
木の瘤
力は
まあるく
熟るものかしら ※「熟る」=「なる」
一方で、私はいまだに丸くなってしまいたくないと思っていて「永遠の中二病」を自称していたりする。そして、今回、この歌集を読んで、変な感覚かもしれないが「ああ、私は安心して『丸くなりたくなさ』を維持しててもいいんだな」と思った。
当たり前の話だが、人にはそれぞれ個性がある。だからこそ、お互いにないものを意識的にせよ無意識にせよ補完し合うところがあると思う。純さんが私にはない「まあるい」をしっかり担当してくれるから、私は安心して中二病を患うことができる(?)、勝手にそんなふうに感じた。
私のみならず、この歌集を読んで、なんだか補完してもらえるような気持ちになる人は結構いるのではないかと思っているがどうだろう。その「まあるさ」それから、以前この栢瑚のnoteの別記事でも触れたが、扱うテーマの幅広さ。今回、子育て関係の歌は『しかくいボール』でまとめたということでそれ以外の歌がメインになっているとのことだが『しかくいボール』に描かれた経験の豊かさも今回の歌集の背骨にあるように思う。
「まあるさ」といい、テーマの広さといい、純さんの心の動きの基本にあるのは、人でもものごとでもまず受容する、ということなのではないだろうか。ここでも私と対比的だと思っている。私はまずなんでも距離をとって「観察」する。自分の心でさえ。けれど、純さんはなにごともまず自然に受け容れている感じがする。受け容れ、受け容れたことによって感じたこと考えたことを丁寧に紡ぎ出す。体温、肌触りのある言葉で。受け容れることによって、時には痛みを伴う変化を被りながらも。
だれかの死に
遭うたび
心に楔を打つようです
繋がりはもう
ここにしかない と
このひとは
知らないのだ
私がどんなことで絶望するかを
だから何度も
絶望をくれる
たやすくはない経験を積んで、なおもまあるくなり続け、痛みさえもくるんで、より豊かな丸になる、そういうイメージがある。水源純という筆名にヒントがある気がした。水はどんなものの形にも沿い、また水滴はおのずと丸くなる。そういえばこんな歌もある。
ひとの思いは
温かな
液体なんじゃないかしら
胸に届けば
溢れそうになる
純さんの思いこそが「温かな液体」だと、この歌集を読んで思う。
なぜこんなに受容的に温かくまあるいんだろう。思えば、第一歌集『この鳩尾へ』のタイトルのもとになった歌など、若い頃からすでに不思議な包容力を備えていた。ある程度は天性のものなのかもしれない。そして年月と経験が、そしてそれらを通じて歌を作ってきたことがさらにその包容力を深めたのではないかと思っている。そしてなにごとも受容するからといって、そのことで自己をたやすく明け渡すということでもない。むしろ、いろいろと受容し、それについて思い巡らすことで、自己のまなざしをよりたしかに「純」にしてゆく。
きみの正しさはどうか
誰かを刺すものではなく
ゆるすものでありますよう
ゆるすことで
ふくよかになれますよう
かなしいって
言ったもん勝ちみたいだ
かなしいの椅子取りゲームで
あぶれたかなしみよ
ここにおいで
そんな純さんだから、ごく個人的な愛の情景を描いたと思われる歌も、こちらの心まで広がってくるようなやわらかさを持っている。
ふたりの時間は
いつまでも
見てたいような
どこまでも広がるような
更紗の紋様
タイトルのもとになった歌は「空」を詠んでいるが、そういえば空も「天球」という丸だなあなんて思ったり。
何度も見あげた空なのに
こんなに青い! と
心は驚嘆する
とにかく歩こう
まだ知らない青があるはずだ
本当はもっとたくさん引用したいがきりがなくなるのでやめておく。ぜひ多彩な歌の数々を多くの人に味わってほしいと思う。そして今後純さんが「まだ知らない青」をどんなふうに見つけ、どんなふうに歌にしてゆくのか、楽しみにしたい。
章ごとにはさまれた、純さん自身による写真の数々も、モノクロの心象風景として歌の世界をさらに立体的にしている。
そして表紙の写真は水源カエデ氏によるもの。雨粒のついた夜の窓と、その向こうの灯りだと思うのだが、灯りは丸く、そして雨粒ひとつひとつも、多少の歪みはあっても丸い。そしてこの写真全体の印象から私がぱっと連想したのは「球状星団」なのである。ちなみにこの記事のタイトル写真はこの歌集の表紙と、古い図鑑の球状星団の写真を並べてみたものである。