月刊「五行歌」誌掲載の鳴川裕将氏五行歌集『配達員』(市井社)書評
こんにちは。南野薔子です。
月刊「五行歌」誌2021年5月号に、鳴川裕将氏五行歌集『配達員』について私が書かせていただいた書評が掲載されましたので紹介いたします。
私が書けたのは、この五行歌集の魅力の一側面に過ぎません。月刊「五行歌」誌2021年5月号には、他の方々の素晴らしい書評も掲載されていますので、ぜひそちらもお読みいただければと思います。月刊「五行歌」誌についてのお問い合わせは五行歌の会へどうぞ。『配達員』についての市井社のwebページもごらんください。
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きょとん
南野薔子
ずっと前から、鳴川裕将氏のひそかなファンである。
鳴川氏には、私の地元福岡で過ごした時期があり、またその頃、今はない「フラクタル」という若手(当時)五行歌人のグループメンバーとして、共に活動していた。けれど、なぜか私には鳴川氏と直接話したという記憶がほとんどない。それは私の非社交的な性格ゆえなのだが、だから前からひそかなファンであることも鳴川氏ご本人には伝えずじまいである。
その後、あとがきにあるように、鳴川氏は一度、五行歌の世界から姿を消した。ひそかに残念に思っていた。だから、再び鳴川氏の名前を五行歌誌に見出したときはひそかに喜んだ。ここにこうして書いたことで、私のひそかなファン歴は、ちっともひそかではなくなってしまう、それがちょっとさびしいような複雑な気持ちだ。
『配達員』は不思議な五行歌集だ。目次がないことにあれっ? と思った。五行歌集は多くの場合章立てがあり、著者にとってのテーマ別、あるいは時系列などで構成されていることが多い。けれどこの五行歌集にはそういった章ごとのページを示す目次はない。では章はないのか、いやあるのである。扉ページの次に「日々の歌」と、章タイトルだと思われるものがある。つまりこの歌集は「日々の歌」という一章のみでできた歌集なのだ。途中イラストでの区切りはあるが、基本ノンストップで歌が並んでゆく。そこが個性的だなあと思う。
何度か読んでいるうちに、私の脳裡にはなんとなく「きょとん」としている子どものイメージが浮かんできた。この世という場所にまだそれほど慣れない子どもが、新しい事物に出会って「きょとん」としている感じ。その「きょとん」、事物へのとまどいやおどろき、といったものが底流にある気がする。もちろん鳴川氏は大人であり、大人なりの経験や認識を持ち、また大人の語彙を持つ。けれど、日々の中で経験を歌にしてゆくとき、必ずその「きょとんとした子ども」の目を通している、そんな風に感じる。いや、きょとんとした子どもが鳴川氏の中にいるからこそ歌が産まれるのだ、きっと。
歌をかたちにする際も、鳴川氏は、まるでまだ言葉というものを扱い慣れない子どものように、言葉を選び、並べている気がする。そこには「詩歌とはこういうふうに仕上げるもの」という固定観念からの、驚くほどの自由さがある。次の歌はその自由さを損なわずにいたいという意志のあらわれなのかもしれない。
五行歌が
産まれる
瞬間
じゃまするな
俺
大人になると、子ども時代の感覚をなつかしんだり、その頃の気持ちを思い出して歌を作ったりすることはあっても、自分の中の子どもにすっとシフトして歌を作れる人というのはなかなかいないと思う。鳴川氏の歌にはその自由さがあり、一方で私は自分の子ども性を強烈に意識しながらも全くその自由さを持たない。だから、私はその鳴川氏の自由さに憧れて、ひそかなファンになったのだとあらためて気づいた。
固定観念に囚われない新鮮な感覚で並べられた言葉は、時になんだかわからないような、不思議な、でもなんだかわかるような比喩となる。
公園で
風に舞う
黒い傘
詩を愛する友人の
ダンスのよう
みんな
みんな
線香花火の
火の玉にみえる
帰り道
彗星になってしまう
死の器に
幾つもの
顔を
盛りつけると
憎悪と
快楽が
折り畳まれ
綺麗な和菓子となって
頭にある
こういった歌の前で立ち止まるとき、私も、子どもの頃みたいな「きょとん」を追体験しているようだ。
そんな感覚で織りなす歌集の縦糸になっているのが、タイトルでもある「配達員」の経験の数々だ。
宝物のビワがあるんじゃ
もってけ
余命一年という
配達先の
おじいさん
その子の表現はドラムなのだ
家のあちこちを
叩いている
インターホンを押しても
出てこない・・
配達員は荷物を運ぶ体力も、人と対面する対人力も使うたいへんな仕事だと思う(新型コロナウィルス禍で、宅配の量が増えているというから昨今はなおさらだろう)。そんな中でも、鳴川氏の子どもの目は、その中で出会った人やできごとをやわらかく掬い取る。そして、配達もある種、子どもがゲームを楽しむみたいに楽しんでいるところもあるのかもしれない。
チョンチョンと
番地を入力
パズルのように
家を探す
はいどーぞ
この最後の「はいどーぞ」は無造作なようで、どこかユーモラスなあたたかみが灯っている。
五行歌や五行歌人について歌った歌も多い。それらは、誤解をおそれず云えば、子どもが大好きなおもちゃや、遊び仲間を自慢するような無邪気さに溢れていると感じる。
そして、この歌集が「日々の歌」一章のみという構成であることも「子ども性」の裏付けのように感じられる。子どもにとっては、日々は何らかのテーマや時系列などで区切られているものではなく、ごちゃっと、未整理の、かたまりとしてやってくるものだ。かたまりの中で、あんなことも、こんなことも、次々と起こる。
だから、この歌集は、最初から順番に読んでいって、あっちに飛んだりこっちに飛んだりする感覚を味わうのもいいし、なんとなくぱらっとめくって、目についた歌を味わう、という読み方をするのもいい。子どもらしい自由さが溢れている歌集ならではだ。
鳴川氏の中の子どもを生き生きさせている一番の源泉はおそらく好奇心なのだろう。
天に
釣り上げられるまで
黒マグロ級に
実存したい
好奇心の海だ
知らない、慣れないことに出会ってきょとんとし、好奇心を持って見つめる、その心が今後も秀歌を生み出すに違いない。
そう思って見ると、表紙の配達員猫くんも、どこか「きょとん」とした顔に見えてきたりもするのだった。そして使われている字体も、カバーの紙の手触りも、イラストの色彩感もみんな、鳴川氏の柔軟な好奇心にぴったりマッチしている。この歌集に会えて、往年のひそかなファンは、とても嬉しい。