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「読書がそんなに偉いんですか」

「読書をしている人はしない人より言葉や感情のストックがあるから、論理的であり怒ることも少ない」

そんなふうに
「読書をする人の方が偉い」
というような意見を最近よく見る気がします

確かに若い人の本離れが進み、趣味が読書、という人に最近読んだ本を聞いても何ヶ月の前に1冊読んだきり、なんて話も聞きますが

別に本読むから偉い、なんてことはないですよね

現に私は幼稚園の頃からそれはもうたくさん本を読んできましたが、それはもうすぐ感情的になります

瞬間湯沸かし器。同じような性格の父とお酒に酔うとよく喧嘩しますし

ここには「読書」というものに対するイメージがあるのかなとぼんやり考えるわけです

たとえば200ページある本を読んだとして、8万字程度だとします

多分私の中に蓄えられるのは精々が200字くらい。この文章素敵だなあと思えるようなものが2文もあったら儲け物ぐらいの気持ちです

読書を神聖なものとしている人たちは8万字がそのままスーっと読者の中に入っていくようなイメージをしている気がするんです。8万字分の蓄えがその人の中にできるようなイメージ

そんなことはないじゃないですか

小説読んだとしても2日も経てば主人公の名前を忘れます。あらましと結末ぐらい覚えとけば上出来でしょう。

そんなことならわざわざ8万字読まずとも「〇〇 ネタバレ」とでも検索すれば5分とかからず知ることができます

読書ってそんなもんだと思うんですね。知識や蓄えを増やす手段としてはあまりに非効率的な手段だと思うんです

だから私は「読書信仰」的な話を見るたびにどうだかなあと思います。そんな高尚なもんではないのになあと

ではなぜ私が読書が好きなのかと言いますと

「色んな世界を体験できるから」となります

以前にBARの扉と本の表紙は同じ、といいうようなことを書いたんですが

本は一つの世界だと思っていて、読書はその世界に自分を浸す行為なんです。劇場版ドラえもんです。詰まるところ

小説を読むことで私はいつだって高校生に戻って可愛い幼馴染に起こしてもらうことができるし、首相暗殺の冤罪をかけられた男にだってなれるわけです

評論などはまさにBARみたいなもので昔を思い出します

BARで働いていた時代、色んな方のお話を聞くのはとても楽しく、賛成できる意見もあればそれはどうなんだろうな、というようなお話もたくさん

玉石混合多種多様十人十色でしたが、色んな世界や視点を知れるわけで、面白いものです

そうやって色んな世界や視点を知る中で「こうだ!!」と考えていた自分の考えが揺らぐこともあります

やっぱり私の意見悪くないんじゃないか、と口角が上がることがあります

何故かその世界でも私の世界でもなかった漁夫の利第3世界が突如として発生することもあります

そうやってうだうだとコトコトと煮詰めていく間にいつの間にか「自分」と呼べるような言葉が出来上がったり

人生の芯としている

「知識は世界の画素である」


ということも、さんざっぱら乱読をしてなんか出来上がった外山滋比古先生の言うところの「セレンディピティ」なわけです

「読書は神聖な行為であり、本を読む人は素晴らしい」みたいな考えは本側も支え切れないでしょう、そのプレッシャー。学校帰りにラーメン食べに行って限界まで替え玉チャレンジするぐらいの距離感がいいです











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