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水族館の「博物館展示論」 - 中村元『みんなが知りたい水族館の疑問50』ソフトバンククリエイティブ

 少し前にラッセンについて書いた際、原田裕規さんの「編集された自然」という言葉が印象に残っていて、それをきっかけにいくつか水族館の本を読んでいます。

 法律的には水族館も博物館に定義される施設なのですが(参考)、私自身は動物園・水族館にほぼ行ったことがありません。そういう生き物に触れること自体苦手ですし、行くとしても科学博物館に行きたいという人種です。本書も、どちらかといえばミュージアム(美術館・歴史系などの博物館。水族館と区別するため、便宜上「ミュージアム」と呼びます)的見地から、水族館を批判するような視点で読んでしまっていたことも事実です。

 たとえばミュージアムの常設展においては作品・資料の地域・年代、また作品の種類による区分がしっかりされている場合がほとんど。これに対して水族館では生活環境別展示といって、「川の展示」「深海の展示」「水辺の展示」などというふうに、美術館に比べるとどこか大雑把に区分されているようにも見えます(p52)。
 これは陸とは違い、水の生き物は一つの海・川で繋がっていて、また海水の温度などにより移動を行うため、地域別の展示が難しいことから用いられている手法のようですが、実際にはありえないからこその「編集」がここで発生します。そのほか、川魚の展示の際、半水槽と言って上半分に滝が作られたりするのも「見栄え」のための「演出」(p114)。言うまでもなく、全ての川に必ず滝があるというわけではありません。
 そういう水族館のスタンスを当初、ミュージアム的な目線で「エンターテイメントに偏りすぎてないか?」と思ってしまったのも事実。もっと水中の事実に沿った展示、あるいは分類学的に同じ種の生物をまとめて展示するべきなんじゃないかと。

 しかしその一方、水族館には単なる見世物小屋に終始せず、「知識の場」という、博物館としての使命ももちろんあります。むしろ、「展示を「客がよろこべばよい」と考えてしまうと、今度はとたんに水族館の意味がなくなってしまって、なんだか薄っぺらな展示に感じる」ともあり(p134)、水族館は「見世物小屋」と「知識の場」という、相克する二要素に折り合いをつけ、両立させるバランス感覚が求められます。
 この時、彼らが一番主眼に置いていることはとにかく興味を持ってもらうこと。前述の生活環境別展示における「編集」について、著者は次のように述べています。

 たかだか数トンから数千トンの水槽で、かぎりなく広い海のいくつもの複雑な環境要素を再現しようとするのだから、見栄えや見どころを優先して展示するのは、いた仕方ないところだ。
 そして実はみなさんもきっと、そのほうが驚き、興味を持って見てくれるだろう。水族館の水槽は、海の写生ではなく、海の不思議やおもしろさを凝縮して映しだすメディアなのである。

p54、太字引用者

 考えてみれば、芸術作品や博物館資料は既に人の手が加わった人工物がほとんどであり、それらをあえて新しく編集・演出することは例外的です。それに対し、水族館で展示する生物資料はそれぞれが貴重でも見た目には地味に見えてしまうものも本書で認められているように、現実的に存在します(p114)。それゆえに「凝縮」、編集・演出することが必要になるケースもある…というのは納得感があります。

 そうした資料の違いもありますが、学術的、また地理的分布として「正しい」を追求することが、かえって学びの間口を狭めてはいないだろうか――水族館のアプローチはミュージアムのそれに比べると自由で、(もちろん)良い意味での敷居の低さを感じます。特に子供を意識したアプローチはミュージアムにとっても共通のものがあるというか、ミュージアムが学ぶべき点も多いのではないでしょうか。

 ちなみに、キャプションに関する実践的な話題もあります。
 著者自身の観察として、100文字のキャプションを読んでくれる人は全体の50分の1、500文字以上のキャプションに至ってはなんと皆無なんだそうです。50分の1というのはミュージアム目線で言えばだいぶ少ないようにも映りましたが、これがミュージアムと水族館の客層の違いとも言えます。今後、ミュージアムが水族館の客層にリーチしようと考えるのなら、この指摘はかなり重要ではないかと思いました。

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