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私が変わるか、社会が変わるか、社会をつくるか

昨年、Twitterの、とあるスペースで

療育は、発達障害児に定型発達児と同じように振る舞うこと(=カモフラージュ)を教えているんじゃないの?

という問いが立っていて、
私はある人のことを思い出していました。

20代くらいの女性です。
ASD当事者の講演の場で、

「私たちにSST(ソーシャルスキルトレーニング)をやらせないでください。足のない人に歩く練習をさせませんよね。学習障害のある人に難しい計算をさせませんよね。私たちは生まれながらに、感じ方や、コミュニケーションの方法が周りの皆と違うのに、社会に合うように訓練をさせられます。努力でなんとかなるものではないのに。SSTは苦痛でしかありません。」

というようなお話をされていました。

数年前の出来事なのですが、
胸に引っかかっているので
とりとめもなく書いていこうと思います。


【カモフラージュ(camouflage)とは】

「障害特性を自ら隠すこと」で、ASDの周辺で扱われている概念です。

ヨーロッパ児童青年精神医学会のガイドラインにその記載があり、DSM-5にも

症状は(中略)、その後の生活で学んだ対応の仕方によって隠されている場合もある(日本語訳 p.49)」

と、カモフラージュを示唆するような記述があるそうです。※当事者の間では「擬態」という言葉で表現されていることも多いです。

特徴的な行動を隠すことで、(定型発達者が大半を占める)社会での生活がスムーズになるというメリットがありますが、ひどく心身を消耗し、そのデメリットは大きいとのこと。

日常生活において絶え間なく自分の行動をコントロールしなければならない結果精神的に疲弊し、抑うつ状態や不安症といった合併症を呈したり、自己肯定感が低下したりすることが挙げられています。(中略) また、療育従事者を含む周囲のひとたちにも ASD児者の特性が見えにくくなってしまうために、ASD の診断が遅れたりなされなかったりする(Lai et al., 2017; Livingston et al., 2019)ことも、欠点と言えよう。多くの場合、カモフラージュの欠点が利点を上回ると考えられている(Mandy, 2019)。
自閉スペクトラム症児者の「カモフラージュ」について
発達医療センター 花北診療所
児童精神科 田宮聡


それでも、周りとのトラブルを防ぐためにカモフラージュを選ぶ人は少なくありません。

具体的にどんな行動がカモフラージュと呼ばれるのかまとめます。


【カモフラージュの種類とその内容】

①マスキング

他人(定型発達児者)に見せかけること。
(自分の好みや本来の姿に蓋をして)髪型、メイク、持ち物、姿勢、歩き方、話し方などを変え、定型発達児者に見えるよう、役に徹するイメージ。

②補償

こういうときはこうすればいいという学習により、困難を回避すること。テレビやマニュアル本、身近な人物、失敗経験などからノウハウを吸収。

exⅰ.誰かが冗談を言ったら無条件に笑う

(単純で柔軟性を欠く、浅いカモフラージュ
※ASD特性がより顕著なケースに多い

exⅱ.状況を考慮に入れた上で、他者の表情や身ぶりを読み取り、そのひとの感情状態を理解する

(複雑で柔軟な、深いカモフラージュ)
※共感ではなく「理解」がポイント。

③同化

周りに溶け込む(紛れる)ことで身を守ること。

ex.グループには入ってはいないが、その近くにいることで属しているかのように見せかけ、集団の中で浮いていることを隠す。


調べてみると、一言で「カモフラージュ」といっても、上記のように様々な型がありました。

場に合ったふさわしい行動を学ぶこと(SST)は、補償の材料に違いなく、その実践(行動のトレーニング)は、本人が納得していなければ、カモフラージュの強制になると思いました。

この点において、中学校の通級指導教室の担当をしている ゆず姉 さんが、支援のひとつの方向を示してくださっていたので貼っておきます。個人の意思が尊重された理想的な支援だと思います。

※ゆず姉さんは「カモフラージュ」とは書いていらっしゃらないのですが、「定型に合わせるための行動トレーニング」をカモフラージュのトレーニングと読みました。


【どこでどう生きるか】

あるASD当事者の方は、療育は日本人が英語圏で生活するために英語を学んだり、あちらの生活様式を学ぶようなもの、と言っていました。少数派が、多数派の中で暮らすということはそういうことだ、と。

それを踏まえると、

どんな場面で
どんな振る舞いをするのが望ましいのか

を学ぶこと、それ自体は不利益をもたらすものではないと感じます。知識はいくらあっても邪魔にはならないですし。

ただ、英語圏で生活している日本人でも、ジャパンタウンでは日本語が通じますし、日本語を知っている外国人とは日本語のまま話ができます。

誰とどう過ごすか決めるのは自分。
大事なのは、選択肢をどれだけ知っているか。
私はどうしたいのか。

そんなことを考えていた矢先に、臨床心理士の村中直人さんのこのツイートを読みました。


必要なのは、あなたを大切にしてくれる人達を大切に出来る人になることだけ

これ、ですよ。
うんうん、と思いますよね。

これぞ健全な人間関係、これぞ共生社会の本質…そんな感じがしますが、

これこそが、昨今話題の

ニューロダイバーシティ(神経多様性):
脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会のなかで活かしていこうという考え方

ではないでしょうか。

村中先生は、やさしい言葉で

自分が尊重されるとともに、相手もまた尊重されている多様な社会

の作り方の話をしているように思います。

簡単そうで、難しい。
難しそうで、割と単純。

手の届く範囲の人たちと
お互いに素敵だねと認め合えたら、私の"広くない社会"はもしかしたらニューロダイバーシティを実現していることになるのかもしれません。

ニューロダイバーシティと聞くと、どこか遠いところで誰かが社会を変えていくようなイメージをもっていましたが、

社会に合わせて自分を変える…
合わない環境から合う環境に移動する…

カモフラージュを含め、社会で快適に過ごしていくための私の選択肢の中に

生きやすい社会をつくる、があるのかもしれない(あってもいいのかな)と、ふと思いました。

多様性を認め合う社会というのは、
特別なことではなく、
誰に対する押しつけでもなく、

あなたは素晴らしい、私もまた素晴らしい

と思うことに他ならないと思えたからです。
そして、子どもたちにもそれを教えたいと感じたから。

それならば、私はこの先、それを体現し続ける人でありたいな、と。

誰に強制されるでもなく、今、そう思っています。

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