映画『The Zone of Interest(関心領域)』
昨日、いつもの映画館で映画を観た。『The Zone of Interest』は、アウシュビッツ収容所の壁を隔ててすぐ隣に住んでいる所長とその家族を描いた映画だったのだが、想像していた以上に恐ろしい作品だった。
100万人以上のユダヤ人が虐殺された収容所のすぐ横に、”普通の“家族の暮らしがあった。
その家族は、すぐ隣で起きている凄惨な行いが何であるかを知っているはずである(こどもたちがどこまで知っているのかまではわからないが)。しかし、そのことに対して、全くと言っていいほど、反応しない(ように映画では描かれていた)。
反応をしない、感情を持たない、というのは、関心がないこととほぼ同意である。関心がないから、好きとも嫌いとも、可哀想とも、なんとも思わない。ただ、汚いもの、触れたくないものとしてだけ認識している。だから、たとえ銃声や阿鼻叫喚の叫び声が聞こえようとも、真っ暗な空が赤く燃えている様子や煙突から立ち上る煙が見えようとも、そしてそれがユダヤ人を焼き殺す炎と煙だったとしても、、何の興味関心も示さない。
そんな彼らも、きっとはじめの頃はそうではなかっただろうと思う、というか思いたい。叫び声に耳を塞ぎ、燃え盛る炎に恐れを感じていた時期もあっただろう。しかし、その状況に慣れ、関心を持たないように自分に言い聞かせ続けていれば、何も感じなくなっていったのだろう。
ナチスドイツの親衛隊長、アドルフ・アイヒマンは戦後、戦争裁判にかけられた際、自身が戦争中に行ったこと、つまりホロコーストを行ったことに対し、「民主的に選出された首相のもとで、法に、命令に、忠実に従っただけだ」と述べたそうだ。
この映画の主人公であるアウシュビッツ収容所所長のルドルフ・ヘスも、同じ心持ちだったのだろう。そしてその家族たちもまた。当時の正義、当時のルールに、“善良な”一市民として従っただけなのかもしれない。彼らは「ユダヤ人は自分たちより劣った民族であり、自分たちを困窮させている張本人である」という教育を受けてきた。だからこそ、正義の名のもとに、自分たちより劣っているユダヤ人が殺されていくことは当然のことであり、特に関心を示すほどのことではなく、“すぐそこに当たり前にあるもの”になってしまったのかもしれない。
そうは言っても、人間には良心というものがあるだろう、善なる心があるだろう、と私たちは信じたい。映画の中にも、所長家族の家で働くポーランド人の下女たちが夜中に、ユダヤ人たちが昼間働く場所に密かにりんごを置きにいく姿や、所長の妻の母が遊びに来た際、叫び声や銃声、夜空を焦がす炎を恐れ、耐えきれずに逃げ出す姿が描かれていた。どんな状況にあっても、わずかな良心を保ち続けた人がいたこともまた、事実である。しかし、そんな彼女たちも、収容所に(そこにいる人たちに)関心を寄せていることを口にすることはない。
映画の中で、ユダヤ人が虐殺される直接的な描写は描かれない。しかし、端々にそれをにおわせるシーンが散りばめられている。血の付いた長ぐつを洗い流す場面、息子が夜中に銀歯を数えている場面、川で骨を拾う場面、そして映画全体を通して聞こえるうめき声や銃声、要所要所で流される不穏な音楽___この映画は音によって恐怖を表現していた(それにより、アカデミー賞音響賞を受賞した)。
また、映画の終盤では、博物館として使用されている現在のアウシュビッツ収容所の様子もあった。ホロコーストについて学んだことのある人がそれらのシーンを見れば、誰でもそれらが何を意味しているのかを想像することができる。つまりこの映画は、それらの暗示されたものから、そこにあった恐怖を観客が想像することを意図されて作られている。もしかすると、直接的にビジュアルイメージで見せられるよりも恐ろしいシーンを想像している人もいるかもしれない。それは見る人がどれだけの事前情報を持っているかに委ねられている。私が想像するシーン、息子が想像するシーン(息子は観ていないが、観て想像したとして)、ドイツ人が想像するシーン、ホロコーストを生き延びた人が想像するシーン、それぞれ全く異なるものになるだろう。
私は昨年『オッペンハイマー』を観た際に、原爆のもたらした惨状が全く描かれていないことに違和感を覚えたが、この映画を観たユダヤ人はどのようにこの映画を受け止めるのだろうか。様々な考えが頭の中をめぐり続けている。
ロシアとウクライナの戦争もパレスチナ問題も収束の気配を見せず、今日も、一方の正義ともう一方の正義の名のもとに、誰かが命を落としている。私はそれをニュースで知る。関心がないわけではない。しかし、“自分ごと”としても捉えられていないのが実情だ。もし、自分がその当事者だったら、と想像しないわけでもない。しかし、結局、実際に起きていることの1割の恐怖も感じられていないだろう。そうだとしても、自分に何ができるのか、自分はそれにどう関わっていくのかいけるのか。関心を持つということと、実際に関わるということは、大きく異なる。ただ関心を持つだけなのか、関わるのか。私はThe Zone of Interestの外にいるのか、中にいるのか。
戦争というものが、遠い昔の遠い場所で起きた出来事ではなく、現在進行形で(しかも私は日本にいるより物理的にも近い場所で)起きている。いつ、自分ごとになるか、本当にわからない状況になりつつある今、非常に大きな問いを投げかけられる映画だった。
「愛の反対は憎悪ではく、無関心である」とは、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサの言葉らしい。初めてその言葉を聞いたのがいつだったかは覚えていないが、そのときにはいまいちピンとこなかった。しかし、数年前に、離婚を経験した友人から、離婚に至ったいきさつを聞いた中で、「好きの反対は嫌いじゃなくて無関心だと悟ったよ」と聞いたときには、なるほど、と深く納得したことを、今でも妙に覚えている。
そして最近、私の脳内ではいつも『アンパンマンのマーチ』が再生されている。