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『加藤楸邨の百句』を読む

四月に頸椎の手術で入院することになり、雑誌『群像』の五月号と手ごろな四冊、計五冊を持ち込んだ。そのうちの一冊が『加藤楸邨の百句を読む』だった。
著者は北大路翼さんで、ぼくの俳句の先生でもある。翼さんの先生にあたるのが、結社「街」のボスである今井聖さんで、今井聖さんの師にあたるのが加藤楸邨らしい。そんなゆきさつで、自分も楸邨山脈の最末端という位置づけになるので、これは読んでおかねばと思い至ったのだった。

この「有名俳人の百句」は最近ふらんす堂が始めたシリーズもので、ラインナップを見てみると、比較的若手の俳人も執筆者に抜擢されてるようだ。どの百句を選ぶか。一句一頁の短い評文で、どう談じるか。読む側にも覚悟がいる。それは循環し、評伝を出せば評する側もまた読者に評されてしまう。この仕事に応じただけでも、北大路翼の度量、肝の太さが伺い知れるというものだ。

難解な句も、ユーモアのある句もスケールのでかい句も選ばれており、俳句初心者や、俳句に興味のない読者に対しても、楸邨の句の魅力を存分に伝えるため慎重に検討したのだと思われる。作品それぞれの解説文も、幅広い層の読み手にわかりやすく伝える文章選びがなされていて、かつ平坦な解釈にならぬよう起伏があり、北大路翼生来のサービス精神が横溢していて、楽しく最後まで読み通すことが出来た。

本文より

鰯雲人に告ぐべきことならず 『寒雷』 昭和12年以後

ぼくはこの句を最初目にしたとき、鰯雲にもかくしごとがあり、それは人間界には禁忌なのだと想到した。頭上に何か重いものが、気流のように垂れ込めてる不穏感があとあとまで残った。しかし、俳句を多く読む者は、鰯雲、で一度シーンを区切り、人に告ぐべきことならず、に読みの焦点を当てるということに後々気づく。鰯雲が秋の季語だと知ってるか否かで、読解に差異が生じる。また切れ字(や、かな、けり等)を使わなくても、初句で切れている、という解釈も読みの可能性として加味出来るようになった。
北大路は先達の俳人、結社『寒雷』の宮崎筑子氏から「教師だった楸邨が、生徒を戦場に送り出したことを悔いて発した」のだと、聞いたと記す。楸邨の自責の念を呟いた作品だと。そして「鰯雲に思ひのたけを託してゐて切ない」と締めくくる。

時代背景を知らずに読んだとしても、やはり、重々しい読後感があり、それは鰯雲という季語の斡旋が確かだったからだろうと、俳句新参者のぼくは、自分なりの解像度で納得する。


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