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『東京都同情塔』を読む

図書館の文芸春秋のバックナンバーが返却されてたので、その雑誌掲載バージョンで読んだ。

人を精神性の象徴として描く話より、モノ、物質として描く話の方が、個人的には好きだ。たとえば司馬遼太郎の「彼は感情量が多い人物だった」というような、大根をぶつ切りにするような形容のしかたに好感を持つ。感情って、量ではかれるものなのか?と高校生の時分などはいちいち突っかかった覚えがあるものの、そういう平易な表現なら、誰でもすっと読めるし、わかりやすい。

この作品には登場人物、人間が出てくるが、ぼくが感じた、この小説の真の主役は主人公の辣腕女性建築家が手にするスマートフォンに搭載されているAIで、他の登場人物もふくめて狂言回しというか、AIの存在価値を担保するための端役ではないかという感触が常につきまとった。主人公に文盲とののしられるAIこそが主人公ではなかったろうか。作者が主人公にも、主人公を憎からず思うハンサム青年にも、どちらにもそれほど感情移入していないように思わせる抑制がみられた。少なくても、自分にはそう感じられた。

誰もが不安を抱えて生きていく世の中で、クールであることを求められている人工知能も、その影響を受けている。その、重心の低いところの危うさ不安定さが、この小説の魅力ではなかろうか。

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