マクロとミクロの扱いが絶妙だから、今宵さんの2つのnoteをみんな読んで!
物凄く抽象化すると、「知って欲しい、偏見はやめて欲しい、特別扱いではなくみんなと同じに扱って欲しい」と言えるかなぁと受け取りました。
例えば、アルコール耐性って生まれつきの要素があって、飲めない人に強要すると体調悪くします。今は、お酒を飲むことを強要されることは減りました。アセクシュアルも同じように生まれつきな可能性があります。
アルコール飲めない方に対して、「あなたはまだ本当の麦焼酎を知らない」とか「ストロングゼロから飲んでみない?」と、頼まれもしないのに提案しませんよね。けど、アセクシュアルはそうではない。
社会的圧力という観点では、若者、とくに生物学的な女性が口出しされるだろうと、僕は思う。男性の場合は、「こんなにいい人なのに / 仕事できてお勤め先も立派なのに」と思うと、お節介なスイッチが入る気がします。
抽象化すると、自分にとっての大切なことを味わっていないことを見過ごしてはいけない、みたいな善意の暴走だと思います。
かつ、他人の領域に立ち入らないこと、各自の責任の線引きが苦手な方もいますね。
お酒の例のように、時代は少しずつ変わります。このnoteがあることで、孤独を抱えたり、自分を責める方が、情報源にアクセス出来る。あるいは啓発される方もいるでしょう。
個人から普遍に至るnoteだと思います。
けれど、私の個人企画のマガジンには、下記を収録させていただきました。理由は簡単で、1人でも多くの人に読んで欲しいし、読み物が欲しくてマガジンを開いて、このnoteに出会うの素敵だと思うから。(同じクリエイターさんを続けすぎると、機械的な印象になり、読み手が心地良くないと考えました)
マクロとミクロ、3.11と個人。さらに多感な時期の人生の岐路やご家族との関係性を、圧倒的なサブカルの記録で具体的に表現なさっている。
あの頃、私は引っ越したばかりで、まだ本棚もベッドも無い部屋の掃除を済ませて、役所で手続きをしていたら震災が起きました。コンビニから食べ物が消え、電車が止まり、町の昔からある小さな自転車屋さんから自転車が消えました。完売。
電車が動いても混雑がひどいので、暖房のない部屋で夜明けを待ちました。
引越しを済ませて、教会が被災地に支援物資を届けていたから、段ボールに荷物を整えて入れたり、足りなくなると段ボールを集めに走ったりしていました。
TVでACの広告と、波の映像が繰り返されるのが辛くて、私がTVを見なくなったのは、3.11が理由でした。阪神・淡路大震災(1995年1月17日)の破壊と火災もショックでしたが、まだネットが無かったから、見ないという選択を取りにくかったのでしょう。
3.11は被災しておらず、大人になっていました。多感な時期に起きたことは、忘れられないですよね。
不思議なもので、神奈川県の高校への駅からの通学路が思い浮かびました。作品に込められた熱量の高さによるのかもしれませんね。
noteを読んで感想を書くしか出来ないけれど、世代や価値観の異なる読者に刺さったことを書いておくと、それは、誰かがこの二つのnoteと作者さんに出会う確率を高められるかもしれない。
そんな、ファンレターです。
アナロジーに戻ると、お酒が飲めない友達も、猫は好きだけどアレルギーが酷い友達も、楽しくマリオカートすることはできます。
マルクスとキリストとマホメッドと仏陀が仮に、自分達の後世への責任を話していて、お昼時だからフードデリバリーを頼む時に、たぶんブッダに合わせてスムージーとサラダとかを頼むと思います。(おそらく、マルクスがピザがいいとは言わないでしょう)
違うこと、多様性、公平、多くのことを学ぶ余地があると思わされるのです。