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1980年代生まれ、チェーンストア育ちが読む『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』

『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(谷頭和希・著/集英社新書)を読んだ。

永らく当たり前のように語られてきた「チェーンストアが地域共同体を壊す」という趣旨の批判的言説に対して、「ドン・キホーテ」というチェーンストアを例にとって真っ向から反論し、ドンキ及びチェーンストアはむしろ新しい共同体とゆるやかな連帯感を生み出すのではないか…と主張する都市社会論。
著者は1997年生まれのライターで、早稲田大学で宮沢章夫に師事し、東浩紀が設立したゲンロンが主宰する批評講座で佐々木敦に学び、デイリーポータルZなどのWEBメディアで記事を執筆してきた。レヴィ=ストロースやクリストファー・アレグザンダーの建築論などを援用してはいるものの、書き口はいたって平易である。

ドン・キホーテ新大久保駅前店

本書では、チェーンストアにおける異端として、「ドン・キホーテ」をその特徴的な装飾の外見、ジャングルのような店内構造、居抜きや権限委譲といった経営戦略、そして地域共同体における役割といった様々な側面から考察している。ユニークな論理の飛躍も含めて、とにかくドンキが大好きなんだなということがストレートに伝わってくる熱量溢れた文章であり、基本的にはとても愉快に読める。
個人的には、ドンキと同じく雑然とした店頭で体験重視型のヴィレッジヴァンガードがコロナ禍で大きく衰退した印象があったので、ドンキとヴィレヴァンの比較検討があったのも興味深かった。しかし、自分の足で全国のドンキを見て回る姿勢は頼もしい一方で、WEB上の情報や経営者の著書から推測しただけの分析も多く、「いや、そこは関係者にちゃんと取材すればすぐわかることでは?」と首を捻りたくなる箇所も散見された。

ドン・キホーテ新大久保駅前店

「一人ひとりの人生のドラマがチェーンストアには存在しているとともに、「チェーンストア」という共通の記憶を思い出すことで、他者の人生に想いを馳せることができるのではないでしょうか。(中略)チェーンストアを使う人たちのなかに、ある種の連帯感を見出だせるのではないか。」

『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(終章 チェーンストアの想像力/P220-221)

ドンキの分析を通じて見えてくるチェーンストアの可能性について、著者は最後にこんな問いかけをしている。この問いかけは一見突拍子もないようでいて、同時に、1980年代半ば生まれの自分にとってはとうの昔に実現した現実にも思える。
たとえば、「高校の部活帰りに駅前のファミリーマートの前に居座り、ファミチキと紙パック飲料を飲みながら過ごしたチームメイトたちとの語らいの時間」は、同世代であれば少なくない数の人たちとそのディテールを分かち合えるのではないか。事実、自分は野球部のチームメイトたちと再開するたびにファミリーマート前で過ごした時間の思い出を語るだけでなく、その日、その場所に居合わせず存在すら知らなかった初対面の人たちとも、非常によく似た記憶を共有する機会がこれまで幾度となくあった。
それは「マクドナルドでLサイズのポテトを頬張りながら恋人未満の異性と過ごした気まずい時間」でもいいし、「ベローチェで一杯のカフェラテだけを注文して何時間も居座り受験勉強をした時間」も同様である。

『気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』(村瀬秀信・著/講談社文庫)という食エッセイがある。内容の好みはともかく、このタイトルを初めて見たときの衝撃を忘れることができない。生まれ育った街の商店街が衰退し、行きつけの個人経営飲食店を持たず、マクドナルドのポテトや吉野家の牛丼を何の皮肉もなく素直に美味しいと思っている自分にとって、まさに我が意を得たりのタイトルだったからだ。

どんな出自でも、どんな境遇でも、どんな身なりでも、ワンコインを持参すれば受け入れてくれ、平等なサービスを受けられ、ときに長居しても排除されないフードチェーン(もちろんそれはフードチェーンに限らずチェーンストアと言い換えることができる)という存在に、どれだけ助けられたかわからない。
そしてこうした記憶や思い入れが、自分一人に特有のものだとは到底思えない。それはきっと多くの同年代人にとって共通の体験であり、たとえ見ず知らずの相手であっても機会があれば互いに熱く語り合うことのできるような記憶ではないか。
私たちは既にチェーンストア体験によって他者の人生に思いを馳せることができるし、ゆるやかに連帯している。そういう時代を生きているのだ。

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