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満洲国建国を眺める

前提

17世紀後半、清朝全盛期である。1689年、清朝とロシア帝国の間でネルチンスク条約が締結され、満州地域の国境が確定された。これにより、満洲地域の大部分は清朝の支配下に置かれることとなる。清朝は満洲族の故地としてこの地域を重要視し、農業開発や防衛施設の建設を推進しつつ、漢民族の入植を制限する政策を採用した。
19世紀半ばに至ると、清朝の弱体化に伴い、外部勢力の介入が増加する。1858年と1860年のアイグン条約および北京条約により、ロシアはアムール川以北とウスリー川以東の広大な領土を獲得し、満洲地域への影響力を強めた。しかし、清朝はなおも満洲の内陸部を支配していた。
20世紀初頭、日露戦争の結果、ポーツマス条約によって日本は南満洲鉄道の経営権と関東州の租借権を獲得する。この時期から日本の満洲地域への影響力が増大する。満洲地域はロシアと日本の間で分割された形となり、南部は日本、北部はロシアの影響下に入る。

清朝滅亡後の動乱

1912年2月、愛新覚羅溥儀は退位し、ここに清朝は滅びた。
その後、1920年代に入ると、中国国内では軍閥が割拠し、内乱状態に突入した。
1924年、北京を攻め落とした張作霖らに寝返った北京政府により、愛新覚羅溥儀とその家族は紫禁城を追い出され、彼らは日本領事館に駆け込んだ。
勢いに乗る蒋介石らの北伐軍と、張学良との間に密約が交わされた。父親である親日の張作霖を日本軍の仕業に見せかけて殺害すれば、息子の張学良は全満洲の権力を握ることができ、満洲地域が一挙に反日の張学良のものになれば彼と連携していた蒋介石ら北伐軍は満洲地域を平定する手間が省けるというものだった。


溥儀の怒り

1928年、それを受けて、張作霖は奉天で爆殺された。張作霖の息子である張学良が満洲の実質的な支配者となり、彼は1931年に満洲国が成立するまでの間、混乱の中で統治を試みた。
東陵事件はこの時期に発生した。この東陵事件にて、蒋介石の軍隊(国民党軍)は清朝皇族の墓所である清東陵を破壊し副葬品を略奪した。
これは、円明園が掠奪されたアロー戦争時のイギリス・フランス軍による蛮行と同様の重大事件であり、この売国的悪行を受けて、天津の日本租界にいた愛新覚羅溥儀とその家族は激怒した。

この恨みに報いなかったならば、私は愛新覚羅の子孫ではない。
私のいる限り、大清は滅亡せぬ。

愛新覚羅溥儀 自伝『わが半生』 

このように、愛新覚羅溥儀は、自分が「大清皇帝」であったこと、そして、その地位を追われたのは、孫文とその思想を受け継いだ一派によるものだと再認識し、満洲国皇帝に即位する十分な動機を得た。これが、当時、満洲地域の分離独立を考えていた関東軍と結びついた。


満洲国

そのため、反日である張学良から新たな親日政権の樹立と、その国家元首に愛新覚羅溥儀を迎える構想が、日本陸軍内で石原莞爾を中心として、練られることになった。
1931年の柳条湖事件を契機に、日本は満洲地域のほとんどを制圧した。

昭和6年11月2日


帝国陸軍大佐土肥原賢二「日本は満洲への領土的野心は全くない・・(中略)・・誠心誠意、満洲人民が新国家を建設するのを援助する。」

愛新覚羅溥儀「私が知りたいのは、その国家が、共和制か帝政かということだ!」

帝国陸軍大佐土肥原賢二「帝政です。」

愛新覚羅溥儀「それならば、行きましょう。」

愛新覚羅溥儀 自伝『わが半生』

そして、上記のような会話の結果、愛新覚羅溥儀は、満洲国皇帝に即位することとなった。
そして、満洲国建国の約2ヶ月後にはリットン調査団が満洲地域に到着した。

リットン調査団報告書
・満洲国は自発的な独立国とは認めない
・満洲国における日本の権益は尊重する

『リットン調査団報告書』

日本はこの発表を受け入れず、国際連盟を脱退しました。
その後、満洲では重工業化が推し進められ、ソ連侵攻後に工作機械の略奪を受けるも、1960年代前半までは、中国国内でも屈指の工業地域として発展していました。これほどの国家を味方につけ、対英米戦争に活かすことができていれば、どれほど心強かったことでしょう。1941年12月の段階では、まだ満洲国は未成熟でした。その事がとても残念でなりません。

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