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【読書】青春の自意識が苦しい『ボトルネック』米澤穂信

こんにちは。如月うさぎです。

数年前に、一瞬、この世から消え去りたいと思ったことがあります。地下鉄のホームで、このまま飛び込んだらどうなるだろう、と思ってたたずんでいました。好きだった人に感情まかせに送ったメールがあまりにも恥ずかしくて、自分という存在を消し去りたかったのです。強く強く強く強く切実に。

あとから考えると、なんでそんなことで、と思うのですが、そのときは切羽詰まっていました。

もちろん、数日後、恥辱心はきれいさっぱりなくなっていました。


自意識過剰の私にとって米澤穂信の『ボトルネック』は痛みを感ぜずには読めない小説だった。わき腹をおさえながら読み通した。

物語は、主人公の嵯峨野リョウが2年前に事故死した恋人ノゾミの事故現場に立つシーンから始まる。リョウは、よろめいて崖を落ちる。

気づくとリョウは金沢市内にいた。自宅に帰るが、そこには見知らぬ女性がいる。女性は何ものなのか?リョウは彼女を疑うが、やがて、女が生まれてこなかったはずの姉サキで、自分が可能世界に迷い込んだことを理解する。リョウは、自分の代わりにサキが生まれてきた世界の「間違い探し」をする。サキに置き換えられることによって何が変わるのか?

日常の謎を得意とするミステリ作家らしく、物語は謎解きの形で進む。その意味で本作はミステリ小説だと言える。しかし、SFの型を借り、ミステリの手法を使うこの作品の本質は、自分と向き合っていく若者の青春物語だ。その青春はイタい。

嵯峨野リョウは、両親ともに浮気をして冷え切った家庭内で首を引っ込めて生活している「何でもない人」。それに対して、オプティミストの嵯峨野サキは、想像力豊かで、他人の問題に首を突っ込み状況を変えていく。嵯峨野サキの世界では、両親も仲直りし、ノゾミも明るく生きている。すべてサキのおかげで。リョウは、一つ一つの違いを見せつけられて打ちのめされる。ますます自分への自信をなくし、自分が生きていること自体が間違えだったのだと思い込む。

リョウがすべての事実を、自分のダメさの証拠と思い込んで、うじうじと悩む姿を見ているとついイラついてくる。「なんでそんな風に考えるの? しっかりしなよ!」とはたきたくなる。他人事ではないから。自分もリョウと変わらないと分かっているから。

私も他人と自分を比べて落ち込む。あの人にはできるのに私にはできないと劣等感にさいなまれる。自分の情けなさに耐えられず、この世から消えたいと思いつめる。

自分の運命を恨み、他人を恨む。

リョウは私であり、私はリョウだ。

だから、どんどん思いつめていくリョウを否定できない。

でも、時間をおいて読み直すと、最初はどうしようもないと思っていたリョウの生真面目さが可笑しくなってきた。「こいつ、何悩んでいるんだろう。そこまで自分、自分、自分と悩むことじゃないだろう」と。

人間は自分が思うほどすごくないし、重要でもない。ひとりひとりの人間というのはその程度のもので、自分の卑小さを悩んでも仕方がない。恥ずかしい選択や失敗を山のようにしても、変わらずに生きている。それこそ、リョウの兄、嵯峨野ハジメのようなアホな人間であったとしても、それが理由で生きる価値がないということにはならない。

大人になるということは、自分の卑小さを笑って受け入れられるようになるということなのかもしれない。『ボトルネック』を読んで、リョウの情けなさを笑えるようになったとき、私たちは一歩成長しているのかもしれない。

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