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それがダンスになる【二〇〇〇文字の短編小説 #28】

向日葵がうなだれていた季節に恋人同士になった二人は、何度目かの冬を迎えようとしていた。一緒に暮らし始めてもうすぐ一年になる。物語ならば新たな展開に移るような時期だし、あるいは映画なら幕切れが近づく頃合いかもしれない。

このところ、恵一と香織の関係は起伏もカーブもない道のような状態が続いている。よくいえば波風が立たず、逆の見方をすれば硬直化していた。二人とも淡々としたつながりに危うさを感じながら、お互いを必要としていることを理解していた。愛はまだ消えていない。それどころか、それぞれがもっと寄り添い合いたい思いを強めていた。けれども、まだ若い二人はどう言葉にすればいいかがわからなかった。

運命のような出会いだった。大学に初めて行く日の朝、バス停でお互いの存在が気になった。恵一は、髪の毛もまつ毛も長く、色白の少女に目を奪われ、香織は、細身でアーモンドみたいな大きな瞳の少年に心を引かれた。大学に着くと、日本文学科の同じクラスだとがわかった。しばらくは話をしなかったが、大型連休が明けたころ、「このグミ、食べる?」と香織が突然声をかけ、二人の距離は瞬く間に縮まった。

恋が始まった。でも、どちらもその気持ちを言葉にしなかった。恵一は燃えるように熱い気持ちで香織の心を焦がすのが怖く、香織は生まれて初めて味わう特別な感情に戸惑っていた。大学では誰とも喋らず、教室のいちばん後ろで本を読んだり、ときどき窓の外をじっと眺めたりしている恵一は、香織が振り払い続けてきた孤独を好んでいるように見えた。香織はその姿に引き寄せられる感覚をうまく処理することができなかった。

二人が恋人同士になったと自覚したのは夏の終わりの夜だ。どちらかが伝えたわけではない。三階にある恵一のアパートのベランダから並んで夜空を染める花火大会を眺めた。どちらからともなく手をつなぎ、張り詰めたときの心臓のように爆ぜる音に促されて、ぎゅっと握り合った。その日、二人は初めて朝まで一緒に過ごした。

二人の大学時代は恋とともにあった。どこかの恋人たちと同じように、ささいな出来事で笑い合い、つまらない理由で言い争い、何かの映画を見て泣いた。ジェットコースターのように浮き沈みのある日々は、だからこそ青春そのものだった。

大学を卒業してほどなく同棲を始めた。物理的な距離が近づくほど、心が遠ざかっていく感覚があった。青春時代の熱っぽい恋心を置き去りにしてきた二人は今、同じように何かを変える必要を感じていた。もう一つの扉を見つけ出してその奥に踏み出さなければ、酸素を失ったろうそくの炎のようにお互いへの思いが消えてしまう。秋がほとんど過ぎ去った東京の街では、通りのところどころを枯れ葉が敷き詰めていた。

その年初めてマフラーを巻いた日の夜、寝る前に恵一が「お互いに最初に好きになった瞬間を教え合わないかい?」と言った。「いいけど、どうして?」と同じベッドに横たわる香織は答えた。「最近『停電の夜に』という短編を読んだんだ。ジュンパ・ラヒリという作家の作品で、夜、停電する時間帯にろうそくの灯りを頼りに夫婦が秘密を教え合う話だ。物語はとても悲しい終わり方をする。でも、まだ打ち明けていない話を教え合う行為は、二人にとって新鮮な時間でもあった。僕たちにも空気を入れ替えるような工夫があっていいと思うんだ」

香織の提案で、手紙で伝え合うことになった。次の土曜日の夜にお互いの枕元に手紙を置き、日曜日の朝にそれぞれが確認する。香織は相手が書いた内容について、何かを話すことはしないという約束事も決めた。

日曜日の朝、寒さで目が覚めた恵一は風船と小鳥が描かれたクラフト紙の封筒を開け、香織からの言葉を読んで、心を揺さぶられた。自分と同じく、ささいなきっかけで自分を好きになってくれた香織を今まで以上に愛おしく思い、ずっと一緒にいたいと思った。今日、その決意を告げなければこの関係にピリオドが打たれてしまうという焦燥感に駆られた。

同棲するマンションからほど近いカフェでランチを食べたあと、恵一は江戸時代の屋敷跡につくられた公園に香織を誘った。人がまばらな広場のベンチに腰掛けて深く息を吸ってから「結婚しよう」と言った。

香織は少し黙ったあと、「私には秘密があるの」と話した。「ずっと隠していたけど、私は小さいころに両親が交通事故で亡くなって、児童養護施設で育ったのよ。だから孤独が怖いし、正直にいえば愛ってものが何なのかわからない。恵一に特別な感情があるのは確かだけれど、でも、これが愛なんだって断言はできないわ」

香織は「だから、幸せになれるかどうか不安なの」とつぶやいた。恵一は突然の告白に声が出ない。二人を沈黙が包むあいだに空から雪がちらついてきた。「あ、雪だ」と立ち上がり、両手を広げて粉雪をつかまえようとする香織のターコイズブルーのスカートが軽やかになびき、その姿がダンスのように見える。

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