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ドラえもんとアンパンマンと野原一家とアドラー「幸せになる勇気」

私が育った家庭では、母の教育方針によってドラえもんの視聴が制限されてました。
クレヨンしんちゃんは見放題だったんですけどね。
ドラえもんの視聴制限理由は、のび太が困りごとに向き合わずドラえもんに頼るのがよくないというもの。
ちなみに、キテレツ大百科は全くの逆なので是非見なさいという感じでした。

「嫌われる勇気」にも幾度となくでてきた「水辺まで連れていくいくことはできても、水を呑ませることはできない」ことを考えると、ドラえもんはひみつ道具を使ってのび太を水辺に連れて行きまくっていて、しっかりと「援助」をしているように思います。
かなりアドラー的に優秀な教育者なのでは?

一方でみさえは大きな声で叱ることでしんのすけを従わせようとしていて、しんのすけを「信頼」していないことがうかがえる。アドラー的にはあまりよくない教育者なのかも。
ところが映画版クレヨンしんちゃんでは意外とみさえもひろしもしんのすけを「尊敬」していたり、しんのすけは「他者に関心」を寄せて承認欲求に拠らない貢献をしていたり。

ドラえもんが教育によろしくないという方針は今後我が家に子が授かったら引き継がずに見せていきます。
私はアマプラで配信してた時期にドラえもん映画を履修しちゃった。ママンすまない。

そんな中、アンパンマンはどうなのでしょうか。
バイキンマンは問題行動の第3段階「権利争い」に陥ってるのかも。
それと対峙するアンパンマンは果たしてバイキンマンを「尊敬」しているかと言えばしていない、よね。

さらにフロムは、こう付け加えます。「尊敬とは、その人がその人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである」と。

アンパンチの鉄拳制裁です。
一瞬怖いことも考えました。

他者を救うことによって、自らが救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。

「メサイヤ・コンプレックス」だったらどうしようかと脳裏をよぎりました。
元々戦地で食糧を配る人物がモチーフのアンパンマンは共同体感覚の人(パン?)なのに、すみません。
しかしそれくらいメサイヤ・コンプレックスって怖い言葉だと強烈でした。

「幸せになる勇気」は前作の「嫌われる勇気」に比べると、あとがきにもあるとおりかなり実践的でコンパスというのも納得です。

その分、アドラーの提唱する人生は踊るにしてはダンスフロア茨すぎでは??という畏れがすごい。

いまあなた自身が採用しているライフスタイルも、子ども時代の生存戦略に根ざした、「いかにすれば愛されるか」が基準になっているでしょう。
あなたはまた、ほんとうの意味での自立を成しえていない。あなたはまだ、「誰かの子ども」としてのライフスタイルにとどまっている。

他者を愛することによってのみ、自立を成しえる……それは「わたし」という主語からの脱却……「わたしたち」を主語に生きるようになれば変われる……。
言っていることの意味はわかるものの、いままさにこの時をそのように生きられるかと問われれば難しい、難しすぎます。
休職前一年くらいは仕事もすごく早くなり、優秀さが増した(と自分で言うのはおかしいけど)けど、子どもライフスタイルを選択していたと思います。
ほら、やはり体調崩す前に知りたかった……。
子どもライフスタイルは楽なんです。
他者からの承認を得て居場所ある感を感じてその繰り返しで日々を過ごすのは。
本書にもある通り、ではその承認がなくなったら?そう、やれないんです。
お恥ずかしながら、ずっとこのスタイルで会社では成果を上げてきた気がする。しかも承認が無くなったかというとそうでなく、承認されてたのに前提がおかしいから続かなくなっちゃったんでしょう。
どつしてももう過去に光を当てがち。よくないね。
主観にしか過ぎないのに。

ドラえもんはのび太の良いところも悪いところも含めて存在を認めて援助をしているという目線でアニメを見直したいものです。
一息にアドラーのいうダンスを踊るところには到達できなくても、心にドラえもんを住まわせて、「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」を読み返して、歩み進める勇気を手に入れようと思います。

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