【漢詩で語る三国志】第3話「貴公子曹植、釜中にありて泣く」
骨肉の争い~兄曹丕との確執
曹操が天下に覇を唱えると、やがて跡継ぎ問題が浮上する。
曹丕は、曹操の卞(べん)皇后との間の長子。曹植は、同じ卞皇后との間の第三子であった。
曹操のお気に入りは、優れた文才を持つ三男の曹植であった。これを快く思わない兄曹丕との間で、王位継承をめぐって確執が生じる。
曹植は、年少の頃から卓越した詩文の才能を発揮し、風格・気骨に溢れ、建安の詩人の中でも、最も傑出した詩人であった。
生真面目な兄曹丕とは対照的に、曹植は、心情の赴くまま奔放に行動する自由人的気質があった。
曹操は、初めは曹植を跡継ぎとして太子に立てようとした。しかし、袁紹や劉表が長子を立てずに失敗したという前例があり、また曹植の放縦な性格に対する懸念もあり、曹操はついに考えを改める。
結局のところ、曹丕が太子となった。父曹操から魏王の位を継ぎ、のちに、漢の献帝から禅譲を受けて、魏王朝を建てた。
曹丕が帝位に即くと、兄弟の仲はますます悪くなり、曹植は兄から執拗な攻撃を被るようになる。
豆を煮殺すまめがら~苛酷な仕打ち
曹植の五言古詩「七歩詩」は、そうした兄弟二人の関係を象徴するものである。
七歩詩 七歩(しちほ)の詩(し)
煮豆持作羹 豆(まめ)を煮(に)て持(もつ)て羹(あつもの)を作(つく)り
漉菽以爲汁 菽(まめ)を漉(こ)して以(もつ)て汁(しる)と為(な)す
萁在釜下然 萁(まめがら)は釜下(ふか)に在(あ)りて然(も)え
豆在釜中泣 豆(まめ)は釜中(ふちゅう)に在(あ)りて泣(な)く
本自同根生 本自(もと) 根(ね)を同(おな)じくして生(しょう)ぜしに
相煎何太急 相(あい)煎(い)ること何ぞ太(はなは)だ急(きゅう)なるや
「七歩詩」は、文献によって、若干字句が異なる。ここでは、南朝宋の劉義慶(りゅうぎけい)が著した逸話集『世説新語(せせつしんご)』から引いた。
『世説新語』は、この詩が作られた経緯を次のように記す。
――文帝曹丕は、あるとき東阿王曹植に、七歩あるくうちに詩を作るよう命じ、できなければ死刑に処すと告げた。曹植は即座に詩を作って詠じた。
絶体絶命の窮地に陥った曹植が、持ち前の俊才を発揮して、瞬時に作って歌ったというのが、この「七歩詩」である。
――豆を煮て吸い物を作り、豆をこして汁を作る。
「羹」は、とろりとした濃厚なスープ。「菽」は、豆類の総称。
――まめがらは釜の下で燃え、豆は釜の中で泣いている。
「萁」は、まめがら。豆の実を取り去った枝や茎の部分をいう。
――(豆は泣いて訴える)「もともと同じ根から生まれた兄弟なのに、どうしてこうまで酷くわたしを煮つめて苦しめるのですか」
「同根」は、母親が同じであることをいう。「煎」は、水分がなくなるまで煮つめること。
この詩は、兄曹丕を釜の下でぱちぱちと燃えさかる「萁」に、自分自身を釜の中で煮られてしくしくと泣いている「豆」に喩える。
同じ父と母の間に生まれた実の兄弟なのに、どうしてこんなに酷い仕打ちをするのか、と曹植は兄を諫める。
理不尽な要求を迫られて、即座に詩を詠じてみせた弟を前にして、曹丕は深く恥じ入ったという。
これと同様の話が『三国志演義』第七十九回にもあり、この詩は、曹植の俊敏な文才を讃えるものとして、人口に膾炙している。
しかし、いかにも作り話じみた話ではある。
正史『三国志』にも、曹植の詩文集『曹子建集』にも、この詩は載っていないことから、曹植本人の作ではなく、後人の手によるものであろうと考えられている。
網に掛かるスズメ~誅殺される側近
曹植の詩風は、作成年代によって、大きくトーンが異なる。初期の作品は、いかにも貴公子らしく、華麗で自由奔放なものであった。
ところが、後半生の作品は、兄の苛酷な迫害、曹叡(そうえい)(明帝)の無慈悲な冷遇による苦悩を反映して、憂愁と悲哀の調べを漂わさせている。
技巧面においては、特に比喩表現に新鮮味がある。自己の抱負や憤懣を託した巧みな比喩が多く見られる。
五言詩「野田黄雀行」は、その典型的な例である。
野田黄雀行 野田黄雀行(やでんこうじゃくこう)
高樹多悲風 高樹(こうじゅ) 悲風(ひふう)多(おお)く
海水揚其波 海水(かいすい) 其(そ)の波(なみ)を揚(あ)ぐ
利劍不在掌 利剣(りけん) 掌(て)に在(あ)らずんば
結友何須多 友(とも)を結(むす)ぶに何ぞ多(おお)きを須(もち)いん
不見籬閒雀 見(み)ずや 籬間(りかん)の雀(すずめ)
見鷂自投羅 鷂(たか)を見(み)て自(みずか)ら羅(あみ)に投(とう)ずるを
羅家得雀喜 羅家(らか) 雀(すずめ)を得(え)て喜(よろこ)び
少年見雀悲 少年(しょうねん) 雀(すずめ)を見(み)て悲(かな)しむ
抜劍捎羅網 剣(けん)を抜(ぬ)きて羅網(らもう)を捎(はら)えば
黄雀得飛飛 黄雀(こうじゃく) 飛(と)び飛(と)ぶを得(え)たり
飛飛摩蒼天 飛(と)び飛(と)びて蒼天(そうてん)を摩(ま)し
來下謝少年 来(きた)り下(くだ)りて少年(しょうねん)に謝(しゃ)す
兄弟間の跡継ぎ争いは、同時に、互いの側近同士の権力抗争でもあった。最終的に、曹丕側が勝利を収めると、曹植の側近の丁儀(ていぎ)や丁廙(ていよく)らが、相次いで誅殺された。
――高い木には冷たい疾風が吹きつけ、大海原には怒濤が巻き上がる。
鋭い剣を手に持っていなければ、多くの友を作っても何になろうか。
「風」と「波」は、険しい時代の「風波」を示す比喩であり、また同時に、肉親から迫害を受けて悲惨な境遇にある詩人自身の心象風景でもある。
「利劍」は、鋭利な剣。権力の比喩である。自分の手に権力がない限り、仲間が危難に陥っても救うことができない、という苦衷の表白である。
スズメを救う若者~果たし得ない願い
ここから、さらに明確な比喩を用いて、自分の置かれている切羽詰まった境遇を寸劇のような調子で語り始める。
――ほら、見てごらん。垣根の辺りにいたスズメが、ハイタカの姿を見て驚いて飛び上がり、自分からかすみ網に掛かってしまったのを。かすみ網を張った猟師はスズメを捕らえて喜んでいる。若者はそれを見て哀れに思った。
「雀」は、曹植の側近や友人たちの比喩。網に掛かるとは、投獄されることを喩える。
「羅家」は、かすみ網を張る猟師。曹丕のことを指す。捕らわれたスズメを見て悲しむ「少年」は、曹植自身を指す。
――若者が、剣を抜き、網を切り払ってやると、スズメは自由に飛べるようになった。飛んで、飛んで、天空を突かんばかりに高く舞い上がり、やがて舞い降りてきて、若者に礼を言うかのようにさえずり回った。
側近や友人たちが、次々に投獄され処刑される中、曹植には彼らを救う手だてがなく、ただ傍観するよりほかなかった。
この詩は、そうした絶望的な状況下での憂憤を歌ったものである。後半の若者がスズメを救うという筋立ては、現実には果たし得なかった願いを詩の世界に託したものなのである。
転がりゆく蓬のごとく~度重なる国替え
曹丕による迫害は、「野田黄雀行」に見られるような側近の誅殺ばかりではなかった。さらに曹植を苦しめたのは、度重なる国替えであった。
「吁嗟(くさ)篇」は、封地を転々とする生活を強いられた曹植が、流浪の嘆きを風に吹かれる蓬に託した詩である。
その冒頭は、次のように歌い起こす。
――ああ、風のまにまに漂う蓬よ。この世にあって、なぜお前だけがこうなのか。遥か遠く、もとの根から離れて去りゆき、朝早くから夜遅くまで休む間とてない。
「吁嗟」は、嘆き声。「轉蓬」は、風に飛ばされて転がる蓬。枯れると根もとから切れて風に飛ばされ、丸くなって大地を転がる。「飛蓬」ともいい、果てしない流転の人生を喩える。
「吁嗟篇」は、全篇二十四句に及ぶ。蓬が西へ東へ、北へ南へと風の吹くまま永遠に漂い続け、天まで吹き上げられたかと思えば、たちまち深淵の底へ落ちてゆくさまを縷々歌う。
そして最後は、詩人自身の分身である蓬の苦渋の叫びで締めくくられる。
――かなうことなら、いっそのこと林の下草となり、秋に野を焚く炎で焼かれてしまいたい。焼けただれるのは、さぞ苦痛であろうが、かつてわが身と一緒だった根と運命を共にできるのなら本望というものだ。
「株荄」は、草の根。曹丕、あるいは、曹丕をはじめとする兄弟を指す。
曹植は、王侯の身でありながら、血を分けた兄弟たちと共に暮らすことすら許されず、独り漂泊の日々を送った。
永遠に流浪を続けるくらいなら、いっそのこと草となって、根と共に焼かれてしまいたい、と訴える。孤独に耐えかねた詩人の悲痛な叫び声が聞こえてくる。
『三国志』「魏書」に見える曹植の伝は、次のように記している。
――十一年のうちに三度国替えを命じられ、つねに汲々として、楽しむこともなく、ついに病を発して亡くなった。時に四十一歳であった。
天才詩人の名をほしいままにした貴公子曹植は、度重なる迫害を受けた末、ついに朝廷に帰れぬまま、四十余年の短い生涯を閉じたのである。
洛水の女神に寄せる思い~もう一つの確執
曹丕と曹植の確執を物語る話として、甄(しん)氏にまつわる逸話がある。
曹丕の皇后となった甄氏は、初め袁紹(えんしよう)の次男袁煕(えんき)の妻であった。曹操が袁煕を破った際、従軍していた曹丕が、甄氏に惚れ込み、父を出し抜いて、甄氏を連れ去った、と言われている。
さて、曹植には「洛神(らくしん)の賦」という作品がある。洛水の女神に寄せる思いを歌ったものであるが、これは曹植が甄氏を追慕して詠じた作だとされる。
言い伝えでは、曹植が甄氏を自分の妻にと望んだが、曹操はそれを許さず、曹丕に与えてしまったという。
のちに、亡くなった甄氏の幻影が洛水のほとりに姿を現し、彼女も本当は曹植に心を寄せていた、と打ち明ける。曹植は、悲喜交々感極まって「洛神の賦」を詠じたという。