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「拙」(三)~明清小品


明清小品の「拙」

明清の小品文(短い論評・随筆・箴言)には、「狂」「痴」「癖」「愚」などと並んで、「拙」なる生き方を讃美する数々の文章が残されている。

袁宏道「拙效傳」

明末の袁宏道えんこうどうに「拙效傳せっこうでん」と題する文章がある。4人の愚鈍な下僕の逸話である。

「狡」なる者が罪を得て禍に遭う一方、「拙」なる者が事なきを得て平穏に暮らしたという話である。

その末尾に、次のように言う。

余が家の狡猾こうかつの僕は、往往にして過を得、独り四拙のみ頗るく法を守れり。其の狡猾なる者は、相継いで逐去ちくきょせられ、身を資するに策無く、多く一二年を過ぎずして凍餒どうだいを免れず。而して四拙は過無きを以て、坐して衣食し、主者は其の他無きをゆるして、口をかぞえて之にぞくあたえ、だ其の所を失うを恐るるのみ。ああ、亦た以て拙なる者のしるしを見るに足れり。

「拙」と相対する「巧」は「狡猾」に置き換えられ、「拙」なる者の「無用の用」が称えられている。

諧謔的な口吻で描かれた架空の人物の伝記であり、それを通して、社会通念とは逆の価値観を呈示している。

張岱『琅嬛文集』

明末の張岱ちょうたいは、『琅嬛ろうかん文集』に収める「山民弟墓誌銘」の末尾で、末弟の張岷ちょうみんを称えて、次のように語る。

才にして拙のごとく、けいにして痴の若し。

才知があるのに拙い者のようであり、賢いのに馬鹿者のようであると称えている。

『老子』第四十五章に「大直は屈するが若く、大巧は拙なるが若く、大弁はとつなるが若し」とある発想と軌を一にして、本当は優れていながら「拙」や「痴」のようであるからこそ称賛に値するとしている。

洪自誠『菜根譚』

明末の洪自誠こうじせいの『菜根譚さいこんたん』は、儒道仏の三教を融合した格言集としてよく知られる。

この中にも、文人精神を担う語としての「拙」の用例が見られる。

前集第五十五条は、次のようにある。

おごる者は富みて而も足らず、何ぞけんなる者の貧にして而も余り有るにかん。能ある者は労して而も怨みをあつむ、何ぞ拙なる者のいつにして而も真を全うするに如かん。

能ある者が懸命に苦労しながら人の怨みを買う一方、「拙」なる者は気楽な自然体を保って天性を全うしていると言う。

また、前集第七十一条に、

十のはかりごと九成るも未だ必ずしも功を帰せず、一の謀成らざれば則ち訾議しぎむらがりおこる。君子は寧ろ黙してさわぐことく、寧ろ拙にして巧なること無き所以ゆえんなり。

とあり、君子たる者は、小利口な「巧」であるよりはむしろ寡黙な「拙」であれと説いている。

同じく第百十六条に、

巧を拙に蔵し、かいを用てして而も明にして、清を濁に寓し、屈を以て伸と為す、真に世をわたるの一壺にして、身を蔵するの三窟なり。

とあり、安全な世渡りの方策として、「巧」を内に隠して表は「拙」のごときであれと説いている。

概して、明清の小品文では、「拙」なる生き方が、一種の「明哲保身」の人生訓・処世術とされたり、稚拙な生き方こそが本来の人間らしい「真」の在り方とされたりすることが多い。

張潮『幽夢影』

清初の張潮ちょうちょうの『幽夢影ゆうむえい』には、次のような一節がある。

痴と曰い、愚と曰い、拙と曰い、狂と曰うは、皆好き字面に非ず、而れども人はつねに楽しみて之に居る。
奸と曰い、かつと曰い、強と曰い、ねいと曰うは、是に反す、而れども人は毎に楽しみて之に居らざるは、何ぞや。

「痴」「愚」「拙」「狂」などは、みな元来マイナスの語気のある文字であるが、人々はつねに喜んでその境地に身を置こうとするのだと語っている。

明末清初は、完全無欠な聖人君子よりも、むしろきずへきのある奇人変人を尊び、そうした個性的な人間の姿に「真」を見出そうとした時代であった。

礼教的に立派な人間は、俗物・偽善者として敬遠され、むしろ世間的には無用者であったり、偏屈で風変わりな人間であったりする方が良しとされたのである。

まとめ

「拙」について記事を三つに分け、潘岳・陶淵明・杜甫・白居易らの詩語、および明清の小品文を中心に、大雑把にその含意と用例を辿ってみた。

詩語としての「拙」は、詩人によって用いられ方は異なるが、概ね、官界や俗世において「巧」な生き方ができない時、あるいは進んでそうした生き方を捨て去った時に、詩人たちは「拙」字を以て自らの胸懐を表白した。

明末清初は、諸々の概念の褒貶が顛倒した時代であり、そうした中で「拙」という生き方が、「狂」や「痴」などと並んで、一部の文人の間でもてはやされるに至ったのである。


なお、記事では触れなかったが、書画の世界においても、「拙」は「巧」と相対してテーマとされた概念である。

中国歴代の絵画においては、しばしば風格の「古拙」なることが問われ、「拙趣」を醸すことが尊ばれた。

また、書論においても、「拙」なる趣を尊び、「拙」を書美の極致とする説が見られる。

さらに、盆栽や太湖石などの賞玩においても、古朴な風趣を「拙」と評することがある。

これら芸術分野における「拙」については、いずれ改めて論じたいと思う。


*本記事は、以前投稿した以下の記事の一部を簡略に改編したものである。


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