【中国の思想と文化】「狂狷」の哲学
要旨
はじめに
「狂」字は、『説文解字』に「狾犬なり」とある。「狾」は、狂犬を意味する。噛み癖のある猛犬のことであるが、主に、病理的に異常な犬を指していう。
これが人間の場合に転用されると、精神錯乱・前後不覚の状態になることをいう。人が狂乱に陥った状態は、古代人の理解では、「憑依」の現象と捉えられるのが普通であった。
神霊が憑いた者とされる狂人が、予言者・霊能力者として振る舞ったり、狂うように舞う恍惚の踊りを伴って、シャーマンが神託を示したり、という事例は、世界各地の民俗において、普く見られるところである。
「狂」の原初的な意味は、上記のようなものであるが、ここで扱う「狂」は、こうした病理学上の疾患、あるいは民間信仰や宗教儀礼における狂気ではなく、精神医学的観点からは正常の枠内にある人間について、その挙動や性格が尋常の域を超えている一種の心態である。
つまり「気性が荒く、むやみに怒るさま」「行動が放縦で、軽率なさま」「思考が妄りで、愚昧無知なさま」などをいう。
これらは、いずれも一般の常識や日常の秩序から逸脱した心の状態をいうものであり、基本的には、好ましくない否定的な意味を持つものである。
しかしながら、こうした心態を表す「狂」字が、思想家の言論や著述に現れる場合、あるいは、詩人が詩語として用いたり、芸術家が処世態度として掲げたりする場合、それは、彼らの主義主張や人生美学が託された肯定的な意義を有する概念となり、字書的には定義しきれない特殊な意味内容を担うのである。
一 孔子における「狂」
(一)「六蔽」と「三疾」
まず、『論語』における「狂」の用例を挙げてみよう。
儒家思想においても、「狂」が、元来は、否定的な含意の概念であることに変わりはない。
「陽貨」篇に、次のような一節がある。
孔子が、弟子の子路に対して「六言六蔽」の道理を説いて聞かせた場面である。「六言六蔽」とは、「仁・知・信・直・勇・剛」の六つの徳性を持つ概念においても、学ぶという心掛けを欠くと、六つの弊害がつきまとうことをいう。
その最後の項目で、「剛を好んでも、学問を好まぬ時には、狂に陥ることになる」と戒めている。
ここでの「狂」は、軽挙妄動すること、自制を欠いて、むやみに人とぶつかることの意であり、「愚」(愚昧なさま)、「蕩」(取り止めのないさま)、「賊」(人を損なうさま)、「絞」(窮屈なさま)、「乱」(乱暴なさま)と並んで、人が陥りやすい「蔽」(おおわれて暗くなること、つまり弊害)の一つとして呈示されている。
同じく「陽貨」篇に、次のようにある。
ここで「狂」は、「矜」(自尊心が強いさま)や「愚」と並んで、人々の持つ「疾」(気質が偏っていること、つまり欠点)の一つとして挙げられている。
「狂」「矜」「愚」は、いずれも、元来は、字面の良い概念ではないが、しかしながら、孔子は、これらを必ずしも悪いものとはしていない。
中正を欠いた心態である故に欠点であるとしながらも、これらが人の言動として現れる際に、古今の間で、良しと認められるものと、そうでないものとの差異があることを述べている。
同じ「狂」であっても、昔の「肆」は、小節に拘らず、思う存分に発言し行動する自由奔放なさまであり、一方、今の「蕩」は、準則を守らず、淫らで締まりのない勝手放題なさまである。後者は、偽物として退けられるべきものであるが、前者は、人が本来あるべき姿として、むしろ肯定的な評価を与えられている。
これに類似した孔子の言説が、「泰伯」篇に見られる。
人は短所があっても、それを補う何らかの長所を持っているものであり、それすらないような人間は、どうにも教え導きようがない、と語っている。
ここでの「狂」は、熱狂して枠を外れるさまをいい、「侗」(幼稚で無知なさま)や「悾悾」(真面目なだけで無能なさま)と並んで、基本的には、人間の短所として挙げられている。
しかしながら、「狂」であるが故に、その者が人間的に否定されるわけではない。「直」(まっすぐ、正直)でない「狂」はどうしようもないということは、言い換えれば、「狂」の人間は、たいてい「直」という良さを兼ね備えているということである。つまり「狂」は、「直」である限り、肯定的に認められうる一面を持つということである。
「狂」は、『論語』において、人の性格や気質を表す他の概念の多くがそうであるように、白黒・善悪・是非のどちらか一方のみで解釈できる一義的なものではない。常に、相反するものを包み込んだ多義的な概念として現れている。
(二)「狂狷」と「狂簡」
『論語』の中で、本来は、弊害や欠点として否定的に用いられる文字でありながら、最も明確に肯定的な意味内容を賦与されているのが、「狂狷」や「狂簡」として現れる「狂」である。
「子路」篇に、次のような孔子の言葉がある。
中庸の道を得た理想的な人間に出会えればよいのであるが、それができない時に、行動を共にすべき人間として、「狂」なる者と「狷」なる者を挙げている。
「狂」の人間は、進取の気性を持ち、人が躊躇してやらないようなことをあえて自ら進んで行う。積極性・自主性があり、志を抱き、善を求める情熱家である。
「狷」は、「狷介」「狷隘」などのように、元来は、気が短いこと、心が狭いことをいう語であり、転じて、頑なで妥協しないさまをいう。
「狷」の人間は、節操があり、やってはいけない悪いことや、曲がったことは、決してしない。堅く自らの信念を守る頑固者である。
両者とも、中庸の道からは程遠い変わり種であるが、物事の取捨において、主体性を以て行動できる人間であり、孔子が自らの仲間として、喜んで受け入れたタイプの人間であった。
また、「公冶長」篇に、孔子の晩年の言葉として、次のようにある。
孔子が諸国を巡歴し、二度目に陳を訪れた時の言葉である。魯に帰って、郷里の若者たちの教育に専念し、儒家の道理を後世に伝えようとする意向を述べたものとされる。
「簡」は、間が抜けていて精密でないこと、粗略で大雑把なことであり、「狂簡」とは、進取の気性に富み、大きな事を志しているが、粗削りでおおまかであることをいう。
この一節は、魯国の若者たちは、意欲と素質のある人材であるが、それを実践に移して行動する術を知らないので、自分が教育してやる必要がある、という主旨である。
言い換えれば、彼らはまだ未完成であり、師の教えに導かれ、立派に道を実践すれば、いつかは、中庸の人となる可能性を持っている、ということである。
二 孟子における「狂」
『孟子』「尽心下」では、上に挙げた『論語』に見える孔子の言説を取り上げ、孟子が弟子の万章の問いに答える形で、「狂」と「狷」について説いている。
『論語』の「子路」篇を敷衍した一節である。「中行」を「中道」に、「狷」を「獧」に作るが、いずれも同義である。
一つ大きく異なるのは、『論語』においては、「狂」と「狷」は並列されていたが、『孟子』においては、「狂」が得られない場合に、その次に求めるのが「獧」である、というように、両者の間に、明白な序列が与えられている点である。
そして、『孟子』では、『論語』の記述に言葉を加えて、「狂」者は、「志が大きく、何かというと古の聖賢のことを口にするが、言った通りの行いができない者」であり、「獧」者は、「不正不義な行為を恥として行わない者」であるとしている。
さらに、『孟子』では、「狂」なる者の具体例として、琴張・曾晳・牧皮の三人の名を挙げているが、孟子によるこの例挙には、少々問題がある。
琴張は、孔子の弟子顓孫師のことで、字を子張という。曾晳は、曾子(曾参)の父で、字を子晳という。牧皮については、未詳である。
琴張を「狂」とするのは、孔子が『論語』の中で、「過」(度を過ぎるさま)、「辟」(片寄るさま)などと評しているためであろうが、いずれにしても、孔子が、琴張・曾晳・牧皮らを「狂」の名で呼んだことはない。
なお、『論語』の「先進」篇では、子路と曾晳が、同時に登場する場面がある。孔子が、弟子たちに志を問い、子路・冉有・公西華が、それぞれ治国のことや役職のことなどについて、現実的な念願を述べる。次に、曾晳が答える番になり、爪弾いていた琴を置いて立ち上がり、「暮春には、春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂(ぎ)に浴し、舞雩(ぶう)に風ふかれ、詠じて帰らん」と語ると、孔子が感動してため息をついた、という逸話である。
これを見る限りでは、曾晳は、「狂」というよりは、むしろ「逸」の風格を備えているように思われる。
孔子の弟子の中では、粗野で軽率ではあるが、進取の気性に富み、真っ直ぐな性格の子路の方が、より「狂」に近い人物のように思えるが、孟子は、子路を「狂」者の例に挙げていない。
三 「狂狷」と「郷原」
「狂」者は、中庸の道を得た人間に次ぐもの、あるいは、まだそこにまで至らないものとされる一方で、偽君子の「郷原」と対峙するものとして位置付けられている。
『論語』「陽貨」篇に、次のようにある。
孔子は、「郷原」を徳を損なう者として唾棄した。「郷」は、郷党のことをいう。「原」は、「愿」に同じで、慎み深く真面目なさまをいう。
「郷原」とは、村の共同体における円満居士、保守的常識人であり、村人に受けがよいが、その実、世俗と歩調を合わせているだけの偽善者をいう。
『孟子』「尽心下」では、やはり万章の問いに答えて、「郷原」について詳しく説明を加えている。どのような人間を「郷原」と呼ぶのか、という問いに対して、孟子は、次のように述べる。
上記引用の二重括弧内が「郷原」の言である。「郷原」は、「狂」者の大言壮語、言行不一致を責め、「獧」者の独立独行、非妥協的精神を揶揄する。「郷原」は、「狂」者や「獧」者のような生き方を避け、流俗に媚びて世人に好かれていればよい、という事なかれ主義の人間である。
孟子は、「郷原」に「狂獧」を譏らせることによって、両者を対峙させ、その性格の相違を浮き彫りにしているのである。
続いて、なぜ孔子が「郷原」を「徳の賊」と呼んで嫌悪したのか、という問いに対して、孟子は、次のように答える。
「郷原」は、これといった欠点がなく、非難する材料もなく、うまく世に迎合し、いかにも律儀で廉潔な人物であるかのように見える。
孔子や孟子からすれば、このような人間は、主体性に欠けており、自らの見識と原則に基づいて行動することがなく、体制に阿(おもね)り諂(へつら)う凡庸なモラリストである。
言葉や態度は立派でも、実は、中身のない偽物の人間、つまり似非君子である。世間は、彼らを君子と認め、自らもまた君子であると思い込んでいるので、甚だ厄介な存在である。見かけは、徳のある者に似ていて紛らわしいために、孔子が強い嫌悪感を抱いたタイプの人間である。
『論語』において「郷原」が登場するのは、上に挙げた「陽貨」篇の一節のみである。その中で、孔子は、「狂」者との関わりで「郷原」に言及しているわけではない。
ところが、『孟子』に至ると、両者が同じ場に引き出され、「狂獧」は「中道」を得られない場合のセカンドベストとしてよりも、むしろ「郷原」のアンチテーゼとして規定されるようになる。
「狂」者は、尽く「郷原」の裏返しである。円満な人格ではなく、常識を顧みず、周囲の人々と調子を合わせることができない。
「狂獧」の士、「狂簡」の徒に見られるそうした一面は、粗忽で、偏屈な性癖として、彼らが「中道」に及ばないとされる所以であるが、『孟子』においては、そのことよりも、世俗に迎合せず、初志を貫く反骨精神として、彼らが「郷原」と相反する所以であることの方が強調されている。
「狂」は、その概念そのものが、初めから肯定的に評価されていたわけではない。「狂」は、バランスを欠いた心態であり、中庸を尊ぶ立場からは、本来、否定されるべきものであり、「六蔽」や「三疾」の一つとして弊害・欠点に数えられるものであった。
ところが、中庸に似て非なるものである「郷原」を徹底的に攻撃する必要から、それに相反する概念として、「狂」にことさら肯定的な価値観が与えられたのである。
「狂狷」の「狷」は、心が狭いさま、「狂簡」の「簡」は、粗雑なさまであり、これらも、原義は、否定的な意味内容の文字である。元来、否定的なものであるからこそ、それを逆に肯定的に持ち出すと、より強いインパクトがあり、効果的に人に訴えることができるのである。
四 『詩経』における「狂」
さて、ここで『詩経』における「狂」字の現れ方を考察してみよう。
「詩を学ばずんば、以て言う無し」(『論語』「季氏」篇)とあるように、『詩経』は、儒家の必読書であり、学問をする者の教養としての基本文献であった。
「狂」字の用例が『詩経』の中に見られる以上、たとえ用いられる状況が異なっていても、『論語』をはじめとする儒家の言論の中における「狂」字は、『詩経』における「狂」字の含意を、多かれ少なかれ踏襲しているはずである。
(一)「狂童」
『詩経』の中には、女が男を戯れに愚か者、痴れ者と呼ぶ「狂」の用例が見られる。鄭風「褰裳」篇は、次のように歌う。
詩序や古注が、国事に附会し、史実を引くのは、詩の原義にそぐわない。朱子の『詩集伝』に、「淫女、其の私する所の者に語りて曰う」云々とあるように、いわゆる淫奔の詩、つまり、男女の情歌である。
「河を渉る」とは、男女の結合、つまり、情事や結婚を意味する隠語である。この詩は、歌垣において、女が男を誘引する詩と解釈してよい。
「狂童」は、軽はずみで頑劣な少年のことをいう。「童」字は、古くは「僮」に作り、幼少・年少という意味の他に、「童昏」「童昧」などのように、暗愚・浅陋という意味を併せ持つ。
なお、『広雅』では、「狂」と「童」は、いずれも、「痴なり」とある。
陳奐の注では、「童は即ち狂なり」とし、「狂童」は、同義の文字を重ねたものとしている。
鄭風「褰裳」篇では、「狂童」は、女が自分に関心を示さない男を戯れに罵る言葉、あるいは、意中の男を親しみを込めて揶揄する言葉として用いられている。
同じく鄭風の「山有扶蘇」篇、および「狡童」篇に見える「狂且」や「狡童」も同様である。
「山有扶蘇」篇は、次のように歌う。
続いて、「狡童」篇に、次のように歌う。
詩序や古注が、二篇をいずれも、鄭の太子忽(こつ)を刺(そし)る詩とするのは附会であり、詩意は、「褰裳」篇と同様に、男女のことにある。
「狡童」の「狡」は、『説文解字』に、「少犬なり」とあるのが原義で、元来は、若い犬をいい、派生義として、壮健なさま、すばしこいさま、悪賢いさまなどをいう。
なお、朱子は、「褰裳」篇に注釈を附して、「狂童は、猶お狂且、狡童のごとし」というように、「狂童」「狂且」「狡童」の三語を同義とみなしている。
「山有扶蘇」篇の「子都」「子充」は、身分ある立派な男子の代称である。そのような理想的な男性に会えると思っていたら、「狂且」「狡童」に会ってしまった、という詩意である。表向きは、期待外れであったかのように歌うが、実は、「狂且」「狡童」と呼んでいる者こそが、女の意中の男であり、好きな相手を戯れに罵っているのである。
一方、「狡童」篇の「食」や「餐」は、性的欲望の隠喩であり、この詩もやはり歌垣で、女が男を誘引する内容である。女をじらして弄ぶ男、あるいは、女心を解さない未熟な若者を意地悪な人と戯れに罵る歌である。
両篇とも、「褰裳」篇と同じく、若い男女の情歌であり、いずれも男性に対する女性の気持ちを茶目っ気まじりに歌った民謡である。
(二)「狂夫」
さらに、「狂夫」という語が、斉風「東方未明」篇に見える。
第一章、第二章で、男が、登庁に遅れまいと慌てて着替える情景を歌い、第三章で、女のもとに夜這いにやってきた男が、夜明け近くになって、あたふたと逃げ帰るさまを滑稽に歌う。
古い注釈書では、この詩は、お上にの召集や命令に節度がないことを風刺するもの、と解釈している。
しかし、この詩は、純然と男女の密会を歌ったものと解釈する方が、古代歌謡の原義に沿うものであろう。
「狂夫」は、無茶なことをする男の意であり、ここでは、夜這いにやって来る恋人を指す。「狂夫」もまた、「狂童」などと同類の詩語であり、相手の男を馬鹿なことをする人と戯れに罵る諧謔的な呼称である。
このように、『詩経』に見える「狂童」「狂且」「狡童」「狂夫」は、いずれも、若い男女の恋愛や情事を歌う場面で用いられる。女性が意中の男性を呼ぶ際に、「狂」字を冠して戯れることによって、親しみや愛しさなどの感情を込めるのである。
(三)『詩経』の「狂」と『論語』の「狂」
『詩経』の「狂」は、『論語』の「狂」とは用いる対象や場面が異なる故に、従来、儒家における「狂」を論ずる際に、『詩経』の用例に言及することはほとんどない。
しかしながら、「詩三百」は、古代では、知識人なら誰でも習熟していた詩篇であり、孔子が「狂」を語る際に、『詩経』における「狂」字の含意を意識していなかったとは考えにくい。
「狂」を論ずる時、これまであまり注意が払われてこなかった一つの重要な点に、「狂」者の年齢がある。
「狂」字は、元来は、基本的に年若い者について用いられる。上に挙げた『詩経』に登場する「狂」者たちは、みな年若い未婚の男性である。
一方、『論語』でも、「公冶長」篇に「吾が党の小子は狂簡なり」とある。孔子が可愛がったのは、意気盛んな若い弟子たち、未熟ながらも世俗の垢に汚れていない若者たちであった。「小子」という言い方は、おそらく孔子の周囲に多くいたであろう年配で老獪な「郷原」的人間とのコントラストを強く感じさせる。
『詩経』において、「狂」が専ら男女の情についていう語であったということも、留意すべき点であろう。
男女の間の情熱は、人間の持つ感情の中で、最も純粋で激しいものの一つである。直線的・衝動的で、時に、過剰や逸脱もあるという心情のあり方は、その方向性・運動性において、孔子の語る「狂」に通じるものがある。
さらに言えば、『詩経』の「山有扶蘇」篇と『論語』の「子路」篇の間には、次のようなアナロジーを見て取ることはできないだろうか。
『詩経』における「狂」者も、『論語』における「狂」者も、いずれも、理想からは程遠い人間である。しかし、完全無欠でないことで、彼らが伴侶として、同道者として、マイナスとされるわけではない。むしろ、現実感や親密感を持たせる人間として、プラスに評価されている。
望み得ない理想像よりも、どこにでも存在しうる彼らの方こそが、現実の婚姻において、また道の実践の場において、人々から求められた人物像なのである。
おわりに
孔子が唱え、孟子によって祖述された「狂」の概念は、反体制・反伝統の気骨を示す精神として、以後、長く中国の知識人に受け継がれていく。
それは、思想・哲学の場においてのみではない。政界においては、官僚の一つの典型として、憚ることなく直言する者を「狂」の名で呼んだ。
彼らは、貶謫を被りながらも、剛直公正の忠臣として後世に名声を得た。人を「狂」と呼び、自らを「狂」と称することは、人を軽んじるわけでも、自らを蔑むわけでもない。これは、一種の褒め言葉であり、また自己主張である。
詩詞の世界においては、「狂」字は、詩語として早くから定着している。官途に不遇の詩人や文人たちは、世に容れられない憤懣や諦念をしばしば「狂」の一字に託して歌った。
明代に至って、思想界において、「狂」の精神を前面に押し出したのが、王陽明である。王陽明にとって「狂」は、良知を自由に発露させる上での、自然な心態であった。
そして、これが、李卓吾ら陽明学左派の思想家によって標榜され、明末の文人精神の形成に、少なからぬ影響を与えている。「狂」として生きることは、伝統の束縛から脱して、個として自立する一種のスタイルとなった。
芸術においては、狂態の画家や書家が輩出し、また通俗文学においても、「狂」が、明清小説における典型的な人物形象の一つとなるのである。
中国の伝統文化全般にわたって連綿と続くこれら「狂」の諸相について、今後、順次、稿を改めて論じていきたい。
続編:
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