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風雅な格言集『幽夢影』⑩~「蝴蝶の夢に荘周と為れるは、蝴蝶の不幸なり」
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荘周の夢に蝴蝶と為れるは、荘周の幸なり。
蝴蝶の夢に荘周と為れるは、蝴蝶の不幸なり。
(清・張潮『幽夢影』より)
――荘周が夢で胡蝶になったのは、荘周にとっては幸せだ。
胡蝶が夢で荘周になったのは、胡蝶にとっては不幸なことだ。
胡蝶の夢
この一文は、荘子の有名な寓話「胡蝶の夢」に基づいています。
「胡蝶の夢」の話は、『荘子』の「斉物論」篇に、次のようにあります。
昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら喩しみて志に適えるかな、周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。
――以前、わたし荘周は、夢の中で胡蝶になった。ヒラヒラと喜んで舞い、まさしく胡蝶であった。自由気ままに楽しみ、心にかない、自分が荘周であることをすっかり忘れていた。突然、ハッと目が覚めると、そこにいるのは、驚いてキョロキョロとあたりを見回す荘周であった。荘周が夢を見て胡蝶になったのだろうか、胡蝶が夢を見て荘周になったのだろうか。荘周と胡蝶とは、必ず区別がある。これを万物の変化と呼ぶ。
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人間の荘周が夢を見て胡蝶になったのか、それとも胡蝶が夢を見て荘周になったのか分からなくわからなくなってしまった、という奇抜な着想で「万物斉同」を説いています。人間であろうと蝶であろうと、それは現象面において、つまり形の上で相対的な区別があるだけで、何ら絶対的な区別はない、という主旨です。
張潮は、この荘子の形而上学的な議論を人生美学のエピグラムにすり替えています。
張潮曰く、
「荘周の夢に蝴蝶と為れるは、荘周の幸なり。蝴蝶の夢に荘周と為れるは、蝴蝶の不幸なり」
つまり、
「もし荘周が胡蝶になったなら、逍遥自在の世界へと舞っていくのだから、荘周にとってはこの上ない幸せだ。もし胡蝶が荘周になったなら、塵埃まみれの俗世に放り込まれるのだから、胡蝶にとってはとんでもない不幸だ」
と語っています。
江南の洗練された文人だけあって、ひと捻りを加えた洒脱な小品になっています。
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莊周夢為蝴蝶、莊周之幸也。
蝴蝶夢為莊周、蝴蝶之不幸也。
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