風雅な格言集『幽夢影』⑬~「濁富たるは清貧たるにしかず」
――不義にして富むよりも、清貧で暮らすほうがよい。
憂いに満ちた生涯を送るよりも、安楽に死んだほうがよい。
「貧」と「富」
「清貧」とは、ただの貧乏ではなく、心が清らかで潔白で、貧しい暮らしに安んじていることを言います。
「濁富」はその対極にあり、不義にして富むこと、道徳に反する不正な手段で裕福になることを言います。
「清貧」を良しとし「濁富」を悪しとする言説は古くからあり、『論語』「述而」篇で、孔子は次のように語っています。
疎食を飯い水を飲み、肱を曲まげて之を枕とす。楽しみ亦其の中に在り。
不義にして富み且つ貴きは、我に於ては浮雲の如し。
(粗末な飯を食って水を飲み、腕を曲げて枕代わりに寝るような貧乏暮らしであっても、楽しみは自ずからその中にある。
正しい道を踏み外した方法で手に入れた財産や地位は、天空に浮かんだ雲のように自分には関わりのないものだ。)
但し、孔子は、富貴自体を否定しているわけではなく、また、貧乏暮らしを積極的に勧めているわけでもありません。儒家の教えはそれほどストイックなものではなく、中庸を重んじる立場からむしろ極端なことは嫌います。
道義にかなった方法で裕福になることは決して悪いことではありませんし、また、わざわざ自ら努めて貧乏になろうとする必要もありません。
『幽夢影』では、また別の章句で、同じようなことを語っています。
富貴にして労悴するは、安閑にして貧賤なるにしかず。
(富貴であってもあくせくと苦労するなら、貧乏であっても心静かに暮らすほうがよい。)
「富める者は、持っている財産を守ろうとしたり、もっと欲しいと思ったりして、とかく余計な執着や心配事に悩まされることが多い。ならば、たとえ貧しくとも、そうした煩わしいことがなく心安らかに暮らすほうがよっぽどましだ」ということです。
「富める者が幸せとは限らない。貧しい者が不幸とも限らない。要は、心の持ち方次第」ということなのでしょう。
爲濁富不若爲清貧
以憂生不若以樂死