中国古典インターネット講義【第1回】『詩経』~黄土大地に生きた古代民衆の息吹
皆さん、こんにちは!
泉聲悠韻です。
今日からシリーズで「中国古典」のお話をしたいと思います。
まず、講義のメニューをご紹介します。
というように、詩文・思想・歴史・小説・戯曲の順でジャンル別にまとめ、概説と作品選読をしたいと思います。
毎週金曜日に新しい回を投稿する予定です。
では、さっそく今日の講義を始めましょう。
初回は、『詩経』についてのお話です。
『詩経』の成立
『詩経(しきょう)』は、中国最古の詩集、アンソロジーです。
大昔、周の時代、中国北方の各地から、民間歌謡が集められました。
主に、黄河流域の諸国から集められたものですが、そのうち約300篇が現存しています。
正確には、305篇で、この他に、題名だけ残っていて中身の無いものが6篇あります。
どれもすべて作者不明、詠み人知らずです。
集められた民間歌謡は、おおむね、西周初期から東周の春秋時代中期まで、
西暦で言えば、紀元前1000年頃から紀元前500年頃まで、約500年間におよぶ時期に歌われた作品群であろう、と推定されています。
あくまで「推定」です。なにしろ、日本はまだ縄文時代の頃の話です。
さて、これら民間歌謡は、誰がどのようにして集めたのでしょうか?
『詩経』の成立について、『漢書(かんじょ)』「芸文志(げいもんし)」には、
云々とありますが、事実かどうか定かではありません。
そもそも、そのような専門の役人が存在したのかどうかもわかりません。
また、『史記(しき)』「孔子世家(こうしせいか)」には、
云々とあり、「孔子刪定説」と呼ばれていますが、これはまったく信憑性がありません。
『詩経』は、孔子が生まれる以前にすでに今日見られる300余篇の形で成立していた、と考えられるからです。
あとで述べるように、孔子は『詩経』と深い関係がありますが、『詩経』の編纂に関わったわけではありません。
というわけで、『詩経』の成立の経緯は、結局、よくわかりません。
民間から採集されたのか、献上されたのか、あるいは、誰かによって創作されたのか、よくわかりませんが、何らかの形で集められた詩歌が、「史官」あるいは「楽師」によって整理されたものであろう、と推定されています。
のち、漢代に至って、『詩経』は、「五経(ごきょう)」の一つに数えられるようになります。
「五経」とは、儒家の五つの経典「易・書・詩・礼・春秋」を指します。
ざっくり言えば、それぞれ、次のような内容です。
なお、『詩経』というように「経」の字を付けて呼ばれるようになったのは宋代以降で、それまでは、単に『詩』と呼ばれていました。
作品例「碩鼠」
さて、あれこれお話ししても、概説ばかりではピンとこないと思いますので、作品例を挙げてみましょう。
まず、「碩鼠(せきそ)」というタイトルの詩を読みます。
「碩鼠」は、大きなネズミという意味です。重税を課して搾取を行う領主のことを喩えています。
――大ネズミよ、大ネズミ。わしの黍を食べないでくれ。
わしはあんたに何年も仕えたのに、あんたはわしのことを気にかけようともしない。さあ、わしはあんたのもとを去り、かの安楽の地へ行くぞ。安楽の地よ、安楽の地よ。そこにこそ、わしが安住できる場所が見つかるだろう。
――大ネズミよ、大ネズミ。わしの麦を食べないでくれ。
わしはあんたに何年も仕えたのに、あんたはわしになんの恵みも与えようとしない。さあ、わしはあんたのもとを去り、かの安楽の地へ行くぞ。安楽の地よ、安楽の地よ。そこにこそ、わしにふさわしい場所が見つかるだろう。
――大ネズミよ、大ネズミ。わしの苗を食べないでくれ。わしはあんたに何年も仕えたのに、あんたはわしの苦労をねぎらおうともしない。さあ、わしはあんたのもとを去り、かの安楽の地へ行くぞ。安楽の地よ、安楽の地よ。そこでは誰も嘆いて泣き叫んだりしない。
この歌は、一生懸命作った農作物を年貢として奪い取る領主に対する農民の恨み節です。
過酷な状況にある農民の愚痴であり、憤懣であり、そこから逃れたいという叶わぬ願望ですが、読み手に悲愴感を感じさせません。
黄土大地に生きた民の逞しさゆえなのか、素朴な中にも、力強さ、明るさを感じさせる歌で、どことなくユーモラスでさえあります。
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