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風雅な格言集『幽夢影』⑱~「願わくは魚に在りては鯤と為らん」
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願わくは木に在りては樗と為らん
願わくは草に在りては蓍と為らん
願わくは鳥に在りては鷗と為らん
願わくは獣に在りては廌と為らん
願わくは蟲に在りては蝶と為らん
願わくは魚に在りては鯤と為らん
(清・張潮『幽夢影』より)
――もし木になるなら樗になりたい。
もし草になるなら蓍になりたい。
もし鳥になるなら鴎になりたい。
もし獣になるなら廌になりたい。
もし蟲になるなら蝶になりたい。
もし魚になるなら鯤になりたい。
「樗」と「蝶」と「鯤」
この一節は、「来世は何に生まれ変わりたいか」という仏教的な輪廻転生の話ではありません。
「いま仮に自分が人間ではなく、ある別の類の存在であったとしたら、その類の中の何でありたいか」という話です。
木・草・鳥・獣・蟲・魚の六つの類の中であれば、それぞれ何でありたいかを語っていますが、「なんとなく」という漠然とした選択ではなく、明白な理由があり、またそれぞれ古代の思想や民間伝承の典拠があります。
一つ目の「木の類なら樗でありたい」というのは、樗が木材として役に立たないので木樵に伐られずに天年を全うできるからという理由です。
これは、『荘子』「逍遥遊」篇に見える「無用の用」の寓話に基づいて語ったものです。
恵子、荘子に謂いて曰く、「吾に大樹有り、人之を樗と謂う。其の大本は擁腫して縄墨に中たらず、其の小枝は巻曲して規矩に中たらず。之を塗に立つるも、匠者顧みず。今、子の言は大にして無用、衆の同に去つる所なり」と。荘子曰く「今、子に大樹有り、其の無用を患う。何ぞ之を無何有の郷、広漠の野に樹え、彷徨乎として其の側に無為にし、逍遥乎として其の下に寝臥せざるや。斤斧に夭られず、物の害する者無し。用うべき所無きも、安ぞ困苦する所あらんや」と。
恵子が荘子の大言壮語を批判して、「君の言説は、幹はコブだらけ枝は曲がりくねって何の役にも立たない大木のようだ」と言うと、荘子が「だからこそ木樵に伐られずに天年を全うできるのだ」と答えて「無用の用」を説いています。
二つ目の「草の類なら蓍でありたい」というのは、未来のことを前もって知ることができるからという理由です。
古代の占いでは、蓍の茎が筮竹(占いの細い棒)として用いられ、これで吉凶を占いました。『易経』「繋辞上伝」の辞に、次のようにあります。
蓍の徳は、円にして神なり。卦の徳は、方にして以て知なり。
――筮竹の働きは、円形に動いて無限で神秘的である。卦の働きは、方形の算木で示され物事を正しく知る。
三つ目の「鳥の類なら鴎でありたい」というのは、野心や欲望を持った俗人に関わらないでいられるからという理由です。
『列子』「黄帝」篇に、次のような故事があります。
海上の人に漚鳥を好む者有り。毎旦海上に之き、漚鳥に従いて游ぶ。漚鳥の至る者百住にして止まらず。其の父曰く、「吾聞く漚鳥は皆汝に従いて游ぶと。汝取りて来たれ。吾之を玩ばん」と。明日海上に之くに、漚鳥舞うも下らざるなり。
「海辺に住む男が鴎を好み、毎朝鴎の群れと戯れていた。ところが、その父親に鴎を捕まえてこいと命じられて、翌日海へ行くと、鴎は男のところに集まってこなかった」という話です。
「海翁好鷗」という四字熟語になっていて、「下心を持って事に臨むと目的を達成できない」「何事にも無欲無心で臨むべし」という意味で用います。
四つ目の「獣の類なら廌でありたい」というのは、悪しき輩の悪事を見抜くことができるからという理由です。
最古の字書『説文解字』に、
廌は、獣なり。牛に似て、一角。古者訟を決するに、直からざる者に触れさしむ。
とあります。
廌は、想像上の動物で、牛に似た一角獣です。神判の際、罪を犯した者に向かって行くとされ、悪者を見抜く裁判官のような役割をするとされます。
五つ目の「蟲の類なら蝶でありたい」というのは、ヒラヒラと自由気ままに飛び回れるからという理由です。
『荘子』「斉物論」篇に、「万物斉同」を説く「胡蝶の夢」の寓話があります。
昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら喩しみて志に適えるかな、周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
「荘周が夢の中で胡蝶になり、ヒラヒラと舞って自由気ままに楽しみ、自分が荘周であることを忘れていた。目覚めると、そこには驚いてキョロキョロとあたりを見回す荘周がいた」という話です。
六つ目の「魚の類なら鯤でありたい」というのは、逍遙として世俗を超越した境地に遊びたいからという理由です。
『荘子』「逍遙遊」篇の冒頭に、次のような壮大なスケールの荒唐無稽な話が見えます。
北冥に魚有り、其の名を鯤と為す。鯤の大いさ、其の幾千里なるかを知らざるなり。化して鳥と為り、其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里なるかを知らざるなり。怒して飛ぶや、其の翼は垂天の雲の若し。是の鳥や、海運けば則ち将に南冥に徙らんとす。南冥とは天池なり。
「北の海に鯤という幾千里もの大きさの魚がいて、鵬という翼が天空を覆う鳥に変化し、大風に乗って南の天池に向かって飛ぶ」とあります。
「鯤」は、魚の卵という意味です。微小な物を巨大な物の名として既成概念を崩しています。
「鵬」は、世俗を超越して絶対の世界に心を遊ばせる者、何物にもとらわれない絶対的自由の境地に立つ者を象徴しています。
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以上、六つの中の三つ、「樗」と「蝶」と「鯤」がいずれも『荘子』を典拠としています。
在野の文人や官を辞した知識人は概ね老荘を好む傾向があるようですが、『幽夢影』の作者張潮にもその傾向があります。
「樗」のように無用で、「蝶」のように自由気ままで、「鯤」のように逍遥として世俗を超越した存在でありたい、と語っています。
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願在木而為樗
願在草而為蓍
願在鳥而為鷗
願在獸而為廌
願在蟲而為蝶
願在魚而為鯤
『荘子』について、詳しくはこちらをご覧ください。↓↓↓