【心に響く漢詩】白居易「香爐峯下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁」~左遷の地で感得した「心泰身寧」の境地
香爐峯下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁
香炉峰下(こうろほうか)、新(あら)たに山居(さんきょ)を卜(ぼく)し、草堂(そうどう)初(はじ)めて成(な)り、偶々(たまたま)東壁(とうへき)に題(だい)す
唐・白居易(はくきょい)
日高睡足猶慵起
小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聽
香爐峯雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍爲送老官
心泰身寧是歸處
故鄕何獨在長安
日(ひ)高(たか)く睡(ねむ)り足(た)りて 猶(な)お起(お)くるに慵(ものう)し
小閣(しょうかく)に衾(きん)を重(かさ)ねて 寒(かん)を怕(おそ)れず
遺愛寺(いあいじ)の鐘(かね)は 枕(まくら)に欹(よ)りて聴(き)き
香炉峰(こうろほう)の雪(ゆき)は 簾(すだれ)を撥(かか)げて看(み)る
匡廬(きょうろ)は便(すなわ)ち是(こ)れ名(な)を逃(のが)るるの地(ち)
司馬(しば)は仍(な)お老(ろう)を送(おく)るの官(かん)為(た)り
心(こころ)泰(やす)く身(み)寧(やす)きは 是(こ)れ帰(き)する処(ところ)
故郷(こきょう) 何(なん)ぞ独(ひと)り長安(ちょうあん)のみに在(あ)らんや
唐代の詩人、白居易、字は楽天、の七言律詩です。
元和十二年(817)、江州(江西省)に左遷されて三年目の年の作。
白居易は、時に四十六歳でした。
白居易については、こちらをご参照ください。↓↓↓
「香爐峯」は、廬山(江西省九江市の山)にある南北二峰のうちの北峰。
「卜」は、家屋を建てる際に、方位や地相を占うことをいいます。
「草堂」は、粗末な家。自分の住居に対する謙称です。
――日はすでに高く、眠りも足りているのに、まだ起きるのはけだるい。
小さな家ながら、布団を重ねていれば、寒さの心配もない。
「慵」は、ものうい。面倒に感じることをいいます。
「小閣」は、小さな二階建ての家屋。
――遺愛寺で鳴らす鐘の音は、枕にもたれてのんびりと聴き、香炉峰の雪景色は、簾をかかげてぼんやりと眺める。
「遺愛寺」は、香炉峰の北方にあった寺。
「欹」は、寄りかかる。当時の枕は、陶磁製の角枕です。それに頭をつけたまま寝そべっていることをいいます。
――ここ廬山こそ、まさに世俗の名利から逃れるのにふさわしい土地だ。
司馬という官も、まあ老後を過ごすにはぴったりの役職だ。
「匡廬」は、廬山のこと。昔、匡俗という隠者がここに廬を結んだことからこう呼ばれます。
「司馬」は、本来は軍事を掌る官ですが、左遷された者や退職間近の者に与えられる役職で、実務を伴わない閑職でした。
――心身ともに安らかでいられる所こそが、人の落ち着くべき場所だ。故郷は何も長安ばかりにあるわけではない。
「心泰身寧」は、身も心も安らかで穏やかであることをいいます。
「歸處」は、帰着する場所。最終的に身を落ち着かせる場所をいいます。
左遷されたら、ただひたすら都へ帰りたがるのが人情ですが、白居易は、それをきっぱりと打ち消して、ここ廬山だっていいものじゃないか、と達観した心境を歌っています。
「心泰身寧」は、身も心も快適で意にかなっていること、つまり身体的に病気や不自由がなく、しかも精神的にこだわりやとらわれの念がない安楽な境地のことをいいます。
こうした境地にいることが人の本来あるべき姿である、という考え方は、古来、文人たちが心の底に抱き続けてきたものです。
ところが、この価値観は、仕官して功名栄達を追い求めている間は、なかなか顧みられることがありません。
左遷や帰隠という契機によって、それまでの人生を振り返ったり、世俗の名利名声を捨て去ったりした時、はじめて顕在化することが多いのです。
白居易は、元和十年(815)、宰相・武元衡の暗殺事件に関して上書したことが越権行為とみなされ、江州に左遷されました。
江州に居を構えた数年間に、白居易は、多くの閑適詩を残しています。
閑適詩は、長閑な生活の中での意にかなった快適な心境を歌った詩のことをいいます。
この香炉峰の詩にも、そうした心境がよく表されています。
第一句に、「日高く睡り足りて猶お起くるに慵し」とありますが、殊更に朝寝坊のさまを歌っているのには、特別な意味があります。
中央の官職に就いている時は、早朝からきちんと衣冠を整えて参内しなければなりませんが、地方ではその必要はありません。
日が高く昇っているのに、いつまでも寝床の中でぐずぐずしていられる、というのは、政務に忙殺される生活から解放されている自由気ままな心境を表すものです。
このように考えると、詩の最終句に「故郷何ぞ独り長安のみに在らんや」とあり、ここで長安が出てくるのも、それなりに意味があります。
長安は、唐の都、つまり中央の朝廷を指しています。
ここは、人間本来の生き方として、老荘的に自由気ままに生きた方がよいのか、それともやはり儒家的に国家のために献身した方がよいのか、という自分自身への問いかけであり、そこに、白居易の価値観の葛藤が見られるのです。
どちらの価値観に従ったのかは、本人のみぞ知るところですが、数年後の長慶元年(821)、白居易は、中央に返り咲いています。
ところが、すぐその翌年に、自ら志願して杭州・蘇州の地方長官になり、その後は、中央と地方を行ったり来たりして、最後は、刑部尚書(法務大臣)にまで至って、75歳の長寿で逝去しています。
こうした経歴を見ると、おそらく、白居易は、どちらか一つの価値観を選んだというわけではなく、両方の価値観を持ち合わせて、その時々の境遇に合わせて、臨機応変に生きたのではないかと思います。
中国人には、古来、そうした賢い世渡りの知恵、したたかで柔軟な処世観というものがあります。
ちなみに、『枕草子』の一節に、中宮定子に「香炉峰の雪いかならむ」と問われて、清少納言が御簾を上げてみせた、という有名な話があります。
平安貴族の間で白居易の詩がいかにもてはやされていたかを伝える風流なエピソードです。