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【心に響く漢詩】陶淵明「飲酒」~悠々自適の隠居暮らし
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飲酒 飲酒(いんしゅ)
東晋・陶淵明
結廬在人境 廬(いおり)を結(むす)びて人境(じんきょう)に在(あ)り
而無車馬喧 而(しか)も車馬(しゃば)の喧(かまびす)しき無(な)し
問君何能爾 君(きみ)に問(と)う 何(なん)ぞ能(よ)く爾(しか)ると
心遠地自偏 心 遠(とお)ければ 地(ち)自(おのずか)ら偏(へん)なり
采菊東籬下 菊(きく)を采(と)る 東籬(とうり)の下(もと)
悠然見南山 悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を見(み)る
山氣日夕佳 山気(さんき) 日夕(にっせき)に佳(よ)く
飛鳥相與還 飛鳥(ひちょう) 相(あい)与(とも)に還(かえ)る
此中有眞意 此(こ)の中(うち)に真意(しんい)有(あ)り
欲辨已忘言 弁(べん)ぜんと欲(ほっ)し已(すで)に言(げん)を忘(わす)る
東晋の陶淵明(とうえんめい)の五言古詩です。
陶淵明については、こちらをご参照ください。↓↓↓
「飲酒」は、計二十首の連作です。
序文があり、次のように記されています。
「帰隠した後、閑居のつれづれに毎晩酒を飲み、酔って気ままに作った詩がたまったので、友人に頼んで清書してもらった。」
つまり、二十首はいわば寄せ集めで、一定のテーマでまとまったものではなく、また必ずしも酒に関するものでもありません。
ここでは、その第五首を読みましょう。
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廬(いおり)を結(むす)びて人境(じんきょう)に在(あ)り
而(しか)も車馬(しゃば)の喧(かまびす)しき無(な)し
――わたしは人里にいおりを構えた。それでも車馬がやかましく訪れることはなく、ひっそりと心静かに暮らしている。
官界から退いて帰隠を決意した陶淵明は、山奥ではなく、人々の住む村里に隠遁の居を構えました。にもかかわらず、車馬に乗った役人たちがやってきて騒がしくなるようなことはない、と語っています。
君(きみ)に問(と)う 何(なん)ぞ能(よ)く爾(しか)ると
心(こころ)遠(とお)ければ 地(ち)自(おのずか)ら偏(へん)なり
――「どうしてそのようなことができるのか」と人が尋ねれば、わたしは答える。「心が俗世から遠く離れていれば、住んでいる場所も自然と辺鄙な趣になるのだ」と。
この二句は、自問自答の形式です。隠遁するには、山中に隠れなくてはいけないわけではない。人里に住んでいても、要は心の持ち方次第で、辺鄙な場所にいるのと同じような心境でいられるのだ、と自分自身の問いに答えています。
菊(きく)を采(と)る 東籬(とうり)の下(もと)
悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を見(み)る
――東のまがきの辺りで菊を摘み採っていると、ふと遥か遠くに南山の姿が目に映る。
「菊」は、古くは食用の植物です。延命長寿の妙薬とされ、酒に浮かべて食する習慣があります。また、菊は、百花が散った晩秋の候に独り咲き誇ることから、節義を守る孤高の士を想起させ、隠逸の象徴とされます。
「南山」は、廬山(ろざん)を指します。陶淵明の郷里である潯陽(じんよう)(江西省)の南に位置する山です。
「悠」は、遥か遠いさま。作者と南山との距離の隔たりをいうものですが、同時に、その空間的広がりから誘発される詩人のゆったりとした心境を表します。
余談ですが、この詩は梁の昭明太子蕭統(しょうとう)によって編纂された詩文集『文選(もんぜん)』にも「雑詩(ざっし)」と題して収録されています。『文選』では、「見」が「望」に置き換えられていて、この句は「悠然として南山を望(のぞ)む」となっています。「見」は、ふと目に入る、無意識のうちに視界に入ること。これに対して、「望」は、見ようと意識して遠くを望み見ることです。
これについて、北宋の詩人蘇軾(そしょく)が、「陶淵明が菊を摘み採っていた折りに、ふと頭を上げるとたまたま山の姿が目に入ったのであり、そこに自然の情景と詩人の心境とが合致する妙趣があるのだ。「望」では詩の味わいがすっかりなくなってしまう」と評したのは有名な話です。
高度に凝縮された芸術である漢詩にとって、一文字の意義がいかに重いかを物語る話でもあります。
山気(さんき) 日夕(にっせき)に佳(よ)く
飛鳥(ひちょう) 相(あい)与(とも)に還(かえ)る
――遠くかすむ山の景色は夕暮れにいっそう美しく、飛ぶ鳥は連れだってねぐらに帰っていく。
「山氣」は、立ちのぼる靄や霞で刻々と変化する山の姿をいいます。
鳥は、陶淵明の詩の中にしばしば登場します。多くの場合、陶淵明自身の喩えとして用いられていますが、ここでもねぐらに帰る鳥の姿に本来の場所に立ち返る自分自身の姿を投影しています。
此(こ)の中(うち)に真意(しんい)有(あ)り
弁(べん)ぜんと欲(ほっ)し已(すで)に言(げん)を忘(わす)る
――こうした情景の中にこそ、この世の真実なるものがある。それを言葉で言い表そうとしたものの、もはやその言葉を忘れてしまった。
「眞意」は、自然の真理、この世の真の姿。ひいては、その中で生きる人間本来のあり方をいいます。
「言を忘る」は、言葉で表現できないことをいいます。『荘子』「外物篇」に、「言(げん)は意(い)に在る所以(ゆえん)なり、意を得て言を忘る」(言葉は意味をとらえるための手段であって、意味が分かったら言葉は忘れてしまってよい)とあるのに基づきます。つまり、真理は心で会得するものであり、言葉では言い表せない、あるいは、言い表す必要はないということです。
「飲酒」第五首は、陶淵明の代表作として広く知られています。
酒と菊を愛する隠逸詩人という人物像は、この詩によるところが大きいでしょう。
陶淵明の隠逸生活については、冒頭に貼った記事の「歸園田居」と題する詩の中でつぶさに語られています。ご興味がありましたら、そちらの記事もぜひ読みあわせてみてください。