中国古典インターネット講義【第11回】宋・元・明・清の詩~蘇軾・陸游・高啓・王士禛
960年、趙匡胤が宋王朝を建国します。都は、汴京(今の開封)に置かれました。
1126年、女真族の金の侵攻に遭い、宋の王室は汴京を捨てて江南に逃れ、1138年、臨安(今の杭州)を都に定めます。
1279年、蒙古族の元によって滅ぼされるまで、北宋と南宋を併せて宋王朝はおよそ300年あまり続きました。科挙出身者による官僚制度が確立し、商工業が発展し、思想界・文学界も活発であった時代です。
また、この時代は、印刷技術が発達した時代であり、文化の普及・発展に大きな関わりを持っています。
北宋の詩
概して、唐詩が感情的であるのに対して、宋詩は理性的であると言えます。
唐代の詩が、自然と人生を高らかに歌い上げる主情的な詩であるとすれば、宋代の詩は、哲理的風趣を以て日常の小さな一コマを平静淡泊に歌う主知的な詩であると言ってよいでしょう。
唐代の詩人たちが、ぐっと構えて意気込んで詩を詠んだのに比べて、宋代の詩人たちは、肩の力が抜けた自然体で、まるで日記を書くように詩を作りました。
北宋初期は、「白体」と呼ばれる中唐の白居易に倣った詩が多く作られました。白居易の平易明快なを継承したもので、王禹偁がその代表的詩人です。
一方、これとは対照的な詩風として、「西崑体」と呼ばれる晩唐の李商隠に倣った唯美的な詩が盛行しました。楊億・劉筠・銭惟演ら一群の宮廷詩人がこの詩派に数えられ、北宋初期の数十年間、詩壇の主流を占めました。
この詩派の名は、17人の詩を集めた『西崑酬唱集』(楊億撰)にちなんだ呼び名です。「西崑」は、西の崑崙山(仙山)のことで、宮廷を仙境に喩えたものです。
「西崑体」は、宮廷サロンにおける社交的な応酬の詩で、花鳥風月を華麗に詠じ、皇帝の徳を讃え太平を謳歌する内容で、修辞的で難解な詩です。
北宋中期に至って、欧陽修・梅堯臣・蘇舜欽らが現れ、平淡で散文的な詩を作り、ようやく宋詩の新風が拓かれました。
欧陽修は、宰相の位にあり、文壇の重鎮たることおよそ30年、中唐の韓愈・柳宋元らの跡を継いで、散文の革新に尽力しました。これについては、のちの講義で「古文復興運動」の項目で詳しくお話しします。
欧陽修は、また詩の革新にも積極的で、西崑体の華美で空虚な詩風を一掃しました。
欧陽修の門下からは、王安石・蘇軾ら優れた詩人が輩出しています。
王安石は、進歩的な政治家・思想家です。新法党の領袖として、地主の特権や国家財政の疲弊などの問題を改革するために数々の新法を実施しました。
詩人としては、王安石は、知的で端正な風格のある詩を歌っています。
蘇軾
蘇軾(1036~1101)、字は子瞻、号は東坡居士、一般には蘇東坡と呼ばれる宋代随一の詩人です。
政治家としては、当時の旧法党に属していました。王安石らの新法に反対したため中央を逐われ、杭州(浙江省)、密州(山東省)、徐州(江蘇省)など、地方の知事を歴任しています。
後半生は、南の果ての恵州(広東省)、さらに海を越えて海南島へ流謫の身となりましたが、悲哀の気を微塵も漂わせることなく、悠々と達観した人生を送りました。
蘇軾の詩は、巨視的、楽観的な人生哲学に支えられ、理知的でありながら、かつ大らかで軽妙な独特の風格を持っています。
「和子由澠池懷舊」
七言律詩「和子由澠池懷舊」(子由の澠池懐旧に和す)は、嘉祐6年(1061)、蘇軾 26 歳の作です。
鳳翔府(陝西省)の簽判(高等事務官)に任命され、都汴京に父と弟を残して赴任する際に詠んだ詩です。
詩題に「和す」とありますが、これは「和韻」すること、すなわち詩の応酬において、相手の詩と同じ韻で詩を作って贈り返すことです。
この詩は、弟の蘇轍、字は子由の詩に応えて詠んだ詩です。
蘇轍の詩は、蘇軾の詩題では「澠池懷舊」と略記されていますが、正確には「懷澠池寄子瞻兄」(澠池を懐いて子瞻兄に寄す)と題するものです。
「澠池」は、洛陽の西方にある地名です。そこは、蘇軾兄弟が、5年前(嘉祐元年)、父蘇洵に連れ添われ、科挙の進士の試験を受けるために郷里から都汴京へ上京した際、途中で立ち寄った思い出の地です。
蘇轍の詩は、その頃のことを回想しながら、これから鳳翔へ赴任する道中この澠池を再びよぎっていく兄の蘇軾に寄せた詩です。当時、汴京から鳳翔へ行くには、必ず澠池を経由しました。
そして、ここに挙げた蘇軾の詩は、この弟の詩に応えて作ったものです。
要するに、5年前の事を思い出しながら弟が兄に贈った詩に応えて、兄が弟に贈り返した詩ということです。
――人が一生の間に足跡を残す場所、それはいったい何に似ているだろう。さながら渡り鳥が雪解けの泥の上に舞い降りたようなものだ。
雪泥の上にたまたま爪の痕を残しても、
いざ渡り鳥が飛び去ってしまえば、もはやその行方は知りようがない。
人生行路の一つ一つの足跡は、あたかも渡り鳥が雪泥に残す爪の痕のようなもの、と歌っています。人生のさすらいを渡り鳥の軌跡に喩えています。
冒頭の2句は、この世に残した栄誉も功績も、その人が死んでいなくなってしまえば、いつしか忘れ去られ、跡形もなく消えてしまう、という虚しさ、儚さを表しています。
――あの時の老僧はもう亡くなって、新しい卒塔婆ができている。
崩れかけた寺の壁には、わたしたちが書き記した詩を見るよしもない。
あの日、山道が険しかったことをまだ覚えているかい。
道のりは遠く、わたしたちは疲れ切って、ロバは苦しさにいなないていた。
蘇軾が5年ぶりに澠池にやってくると、当時の老僧はすでに他界し、訪れた記念として壁に書き記した詩ももう残っていません。
末尾の2句は、弟に昔日の記憶を問いかける言葉で結んでいます。
兄弟で歩んできた人生行路への追憶の情を言外に滲ませています。
中国では、古来、詩人同士で詩の応酬をします。友人同士で、あるいは詩酒の集いの場で、相手の詩に対してそれに応える詩を作るのですが、その際、ただ詩のテーマを相手の詩に合わせるだけでなく、形式も合わせなくてはなりません。
例えば、相手の詩型が五言絶句なら、それに応える詩も五言絶句でなくてはならず、そして、必ず和韻します。
蘇軾のこの詩は、和韻の中でも一段高度な「次韻」になっています。次韻とは、相手の詩とまったく同じ韻字を、まったく同じ順序で用いることです。
弟の蘇轍の詩「懷澠池寄子瞻兄」は、次のように歌っています。
相攜話別鄭原上 相携えて別れを話りし 鄭原の上
共道長途怕雪泥 共に長途を道いて 雪泥を怕る
歸騎還尋大梁陌 帰騎 還た尋ぬ 大梁の陌
行人已渡古崤西 行人 已に渡る 古崤の西
曾爲縣吏民知否 曾て県吏為りしを 民は知るや否や
舊宿僧房壁共題 旧と僧房に宿り 壁に共に題せり
遙想獨遊佳味少 遥かに想う 独遊は佳味少なく
無言騅馬但鳴嘶 無言の騅馬 但だ鳴嘶せんことを
この詩の韻字は、順に「泥」「西」「題」「嘶」となっています。ですから、これに応えて作った蘇軾の詩「和子由澠池懷舊」を見ると、これも韻字が同じく「泥」「西」「題」「嘶」となっていて、使用する文字もその順番もぴったりと揃えています。
蘇軾と蘇轍は、兄弟愛がとても強いことで知られています。
二人はしばしば詩の応酬をしていますが、そのほとんどが次韻の詩です。
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