「愚」を歌う漢詩
はじめに
前稿、「愚の系譜(其の一)」において、「愚」の字義と古文献での用例を概観し、中国古代の文人精神としての「愚」について考察した。
本稿は、「愚」の意義を便宜的に六つのカテゴリーに分け、唐詩から用例を挙げながら、詩語としての「愚」の諸相を概観する。
一 「愚蒙」
『全唐詩』九百巻には、計三百七十四個の「愚」字の用例が見られる。
その大半は「愚蒙」「愚昧」など、原義の貶義で用いられている。
詩において、人を「愚」と呼ぶのは、一般的に、智能や学識の低さをいうものではなく、道理を悟らぬこと、人生を誤っていることを指していう場合が多い。
「愚」字は、しばしば詩人自身と価値観が異なる者に対して向けられる。
白居易の「凶宅」に、次のように歌う。
権勢を誇り利禄を貪る「俗人」(高位高官)が、権勢・利禄こそが身を滅ぼす禍の元であるという道理を悟らないさまを「愚蒙」と呼んでいる。
また、李白の「古風」(其二十三)は、次のように歌う。
斉の景公が、かつて牛山に登り、人の命に限りあることを痛み悲しんだという行為を「愚」としている。
この詩の主旨は、儚い人生であるからこそ存分に楽しむべし、とする享楽主義的人生観を歌ったものであり、悲嘆の涙を流すなどは、愚の骨頂だというのである。
歴史上の人物の暴政や失策に対して「愚」という評価が向けられることも少なくない。
王翰の「飲馬長城窟行」に、
とあり、杜牧の「過驪山作」に、
とあるのは、いずれも、暴君始皇帝の愚昧を誹ったものである。
二 「愚直」
「愚」字は、他者に対してのみでなく、自分自身をいう第一人称の語としても、詩文の中で常用される。
「愚」の一字、または「愚生」「愚夫」「愚臣」「愚叟」などは、謙遜の自称として用いられ、「愚見」「愚意」「愚策」「愚志」なども、自分自身の言行をいう謙譲語である。
これらは、いずれも相手(多くの場合、天子や上官)に対して自らを卑下して称するものであるが、詩において「愚」を自称する際は、必ずしもそうした単なる慣用的な謙譲語として用いられるわけではない。
高適「秋日作」に、
とあるが、「愚直」は、「古の愚や直なり」(『論語』「陽貨」篇)を典拠とする詩語であり、詩人の剛直な気概を示すものである。
杜甫は、しばしば自らを「愚」と称しているが、それは、字面通りの自己卑下の称ではない場合が多い。
例えば、「上韋左相二十韻」は、次のように歌う。
自らを世間から隠れて沈淪する「愚蒙」としながらも、その一方で、消渇を患った長卿(司馬相如)や、離群索居した子夏(孔子の弟子)に、自らの境遇を重ね合わせて歌っている。
また、「自京赴奉先縣詠懷五百字」には、次のようにある。
世渡り下手な老いぼれの平民でありながら、愚かしくも自分を古の稷や契(共に舜帝の賢臣)に比している、と自らのことを歌っている。
そしてさらに、「發同谷縣」では、
とある。「黔突」と「暖席」は、つねに世のために奔走し、長く家に落ち着いていることがなかったという墨子と孔子の故事を引いたものである。
「飢愚の人」とまで呼んで自らを卑しめる反面、自分自身を古の聖賢と並べて歌っているのである。
政界での不遇の所以を自らの「愚直」な性癖に帰し、天下国家を事とする儒家的な使命感を以て「愚忠」を守り通した杜甫においては、「愚」という自虐的な響きの中に、心中に秘められた尊大なまでの自負心を看取することができる。
三 「賢愚」
「愚」と並列させて、または対偶の形で、反義の詩語として対照的に用いられるのが、「賢」と「智」である。
「賢者」と「愚者」は、相異なる存在として歌われるよりも、むしろ「貴賤」も「賢愚」も、畢竟、人間である限り同じ存在であるという視点で歌われることが多い。
杜甫「寄薛三郎中」に、
とあり、また白居易「對酒」に、
とあるように、いつかは死んで滅び去る運命においては、「賢者」も「愚者」も、何ら異なる所のないものとして歌っている。
「賢愚」を歌った詩句は、白居易の作に多くの用例があるが、「賢者」と「愚者」に対する社会通念を顛倒させて歌うものがしばしば見られる。
「澗底松」は、次のように歌う。
とあり、「高」(貴)と「下」(賤)が、それぞれ「賢」と「愚」につねに結びつくわけではないとする。
また、「感所見」には、次のようにある。
「巧者」「智者」に対する世俗の価値観を否定し、泰然自若とした「愚者」を肯定的に歌うものである。
こうした道家流の逆説的な物言いの中に、白居易独自の達観した人生哲学を窺い見ることができる。
四 「佯愚」
「愚」字を以て処世観を歌う思索的な詩の中では、『論語』「公冶長」篇に見える甯武子の「佯愚」がしばしば典故として用いられる。
甯武子は、「佯愚」すなわち「愚」を装うことによる明哲保身の処世態度で知られる。
白居易「放言」(其一)は、次のように歌う。
魯の大夫臧文仲は「知者」とされていた人物であるが、分をわきまえない一面があり、『論語』の中では、孔子が「何如(いかん)ぞ其れ知ならんや」(「公冶長」篇)と非難している。
臧文仲は、いわば「聖」を飾る偽の「知者」であり、「愚」を装う甯武子こそが真の「知者」であると歌う。
このほか、張九齢「登荊州城樓」に、
とあり、直言を好んで高祖劉邦から「戇」(馬鹿正直)の評を得た王陵と比され、またさらに、
とあるように、嵇康の「懶」、原憲の「病」、馮唐の「老」などと並べられている。
このように、甯武子の「愚」は、特定の史実や逸話によって形作られた伝統的人物形象の一つを示す詩語として歌われている。
五 「愚谷」
前稿(「愚の系譜(其の一)」)で述べたように、『説苑』「政理」篇に見える故事を典拠として、「愚公」は、隠者、「愚谷」は、隠棲の地をいう詩語となる。
「愚公」は、世を避けながらも時の政治を辛辣に諷諫する隠者である。
王維は、「愚公谷」(其三)で、次のように歌う。
また、杜甫は「贈比部蕭郎中十兄」で、次のように歌う。
「愚公」「愚谷」は、必ずしも『説苑』の故事の諷喩性を踏襲するものではない。
どちらも、栄達を断念したり、俗塵を避けたりして、俗世から身を退くことを歌う際の常套的な詩語として広く用いられるが、韜晦と孤高を象徴的に示す「愚」字が自ずと高遠な気分を醸し出し、詩的イメージに厚みを与えている。
六 「愚渓」
「愚」字に対してとりわけ強い思い入れを示した詩人が、柳宗元である。
「八愚詩」に冠した「愚溪詩序」は、全篇五百数十字の中で、「愚」字を二十七個用いて、集中的に「愚」を語っている。
まず、「愚渓」の命名の由来について、次のように記している。
続いて、「愚」字を以て景物を名付けた所以について、
と述べて、荘子の「無用の用」に基づいた議論を展開する。
さらに、甯武子と顔回に言及し、次のように語る。
甯武子や顔回は、真の「愚」にあらず、我こそは天下一の「愚」なり、と自虐的な響きの言を吐く。
「愚溪詩序」は、政争に敗れた柳宗元が、邵州の刺史に左遷され、さらに永州の司馬に貶謫された後に著されたものである。
絶望的な境遇に置かれながらも不屈の精神を保ち続けたとされる彼の生き方を考え合わせると、柳宗元における「愚」の自称は、謙遜や自嘲自卑の語ではない。
表面的には、自らの「愚拙」が禍を招いたとするものの、内心では、自分に非はないという矜持を抱いていたに違いない。
しかしながら、また、そうした思いを抱きながらも、さらなる迫害を免れるためには「愚」を以て韜晦せざるをえない、という鬱屈した胸懐であったことが推察される。
おわりに
「愚」は、その原義が貶義であるがゆえに、これが一旦褒義に転換されると、ことさら強い自己主張を伴う概念となる。
詩人が、自らを「愚」と呼ぶのは、表面上は、謙遜や自己卑下であっても、内心では、そう認めているわけではない。
そもそも、中国古代の詩人で、自分を愚かと思ってる者は、誰一人としていない。
詩人は、ほとんどの場合、職業は役人であり、中には、朝廷の高位高官も含まれる。彼らは、高度な学識と詩文の才を求められる科挙の難関をくぐり抜けてきた知識人である。当時、知識人は、知識人であるというだけで、超エリートであり、「愚」は、最も彼らに似つかわしくない文字なのである。
にもかかわらず、詩人たちは「愚」を自任し、時に自負を込めて「愚」を歌った。それは、「狂」や「痴」と同様に、貶義の概念に自らの哲学と処世態度を託した中国古代の文人精神の表象にほかならない。
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