【第35章(最終章)・融女謝師恩碑】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)
第三十五章(最終章) 融女謝師恩碑
狩野融川の切腹から二十五年が経った。
天保七年(一八三六年)三月十九日、栄は、江戸の南郊、池上本門寺の境内にいる。日蓮入滅の地に建つこの大寺院は、狩野派奥絵師四家の菩提寺である。
浜町狩野家の第五代当主・融川寛信もここに眠っている。しかし、彼の墓だけは、歴代当主の墓が並ぶ地域から二十間ほど(四十メートル弱)離れたところに、ぽつんとひとつ立っていた。
切腹後、その死を隠し、秘密裏に埋葬したため、そのようになった。埋葬時、栄も寂しく思い涙をこぼしたが、今はかえってよかったと思う。
融川の墓の前方に小高い丘がある。丘の上は紀州徳川家の墓所である。常緑樹が多く、静かな場所だ。しかし、春、この時期だけは、その丘の斜面が鼓草に覆われ、ひどく華やかで美しい。
鼓草とは、現代の我々が「タンポポ」と呼ぶ、可愛らしい黄色い花のことだ。春の生命力に満ちた緑を背景に、鼓草が、密集して咲く部分は金泥を塗った雲のように、点在する部分は金砂子を散らした霞のように見える。
毎春、この景色を見るたびに、栄は、融川の描いたあの近江八勝図屏風を思い出すのであった。そして、融川の死から二十五年。栄は、鼓草の丘を見渡せるこの場所、融川の墓の傍らにひとつの石碑を建てた。
決して小さなものではない。縦六尺半(約二メートル)、横四尺半(約一・三五メートル)もある安山岩の石板だ。
また、題の揮毫は儒者で能書家の男谷思考、撰文と書は国学者・前田夏蔭、石刻は名工・窪世祥という、当時一流の人々に依頼した。それだけでも、建立者である栄が、融川の死後、絵師として社会的に成功したことを伺わせる。
融女謝師恩碑
栄が、融川の二十三回忌を記念して建てたこの石碑の題である。読み下すと、「融女、師の恩に謝するの碑」
師より受けた恩は、荏原の海よりも深く
師より得た教えは、多摩川の河原の小石よりも多い、と碑文にある。
融川切腹の時期からすると、二十三回忌というのは計算が合わないが、それには事情がある。すなわち、文化八年(一八一一年)一月十九日、狩野融川は下城途中に駕籠の中で切腹して死去したが、その事実は隠された。
そして四年後、嫡子・舜川昭信が家督相続できる年齢となったことで、その年が、融川の正式な没年とされた。現代に残る融川の墓にも、「文化十二年乙亥三月十九日卒」と彫られている。
また、融川が描いた屏風は、栄の望み通り、将軍家斉の朝鮮国王への贈り物として無事に朝鮮側に引き渡された。融川の絵師としての名誉は守られたのである。
融川の切腹後、浜町狩野家は一時混乱したが、栄の奔走は勿論、一門の結束と他の奥絵師家の協力により、何とか乗り切ることが出来た。
三年後、弟子たちに奥様・歌子から融川の名前で一字拝領が行われ、この時に栄は、「融」の一字をもらっている。
同時に、栄には縁談が持ち込まれた。相手は、阿部備中守との交渉に同席した蘭方医・町田昌豊であった。
「奥様。せめて、舜川様のご相続が済んでからにしたいと思うのですが」
「でも、その時点から殿様の喪に服すことになりますよ。早い方がよいと思うのです」
それまで思いもしなかったが、改めて見れば、悪い相手ではない。町田自身、藩士の勤めそっちのけで医学に没頭している変わり者だ。まさか、栄に対して、絵筆を折って家事に専念しろとは言うまい。栄は、歌子の言葉に従うことにした。二十二歳であった。
その後の栄は、自分の作品に「町田氏融女寛好」と署名している。以降、様々な記録においても、「町田融女」又は「融女寛好」と記述されることとなる。
浜町狩野家の六代目となった舜川昭信だが、家督を継いでわずか一年で亡くなってしまった。彼は元々病弱な性質であったので、家督相続と同時に弟の友川助信を養嗣子として届け出ていた。
そのため、問題なく友川が七代目となったが、その友川も二十八歳という若さで亡くなる。融川の血はそこで絶えた。その後、木挽町家から養子を迎えて家を保つことになる。
ところで、栄とやり合った阿部備中守はどうしたか。
彼は、融川切腹から六年後、水野出羽守ともども幕府の執政・老中職に就くも、念願の老中首座にはなれずに終わった。有能な彼に失敗はない。単純に長生きレースに負けた。備中守は、ひと回りも年長の水野より十年も早く、五十二歳で死んでしまった。
ちなみに、「幕末」と呼ばれる時代の初期、幕府の衰勢を挽回せんと、命を削るように奮闘した老中首座・阿部伊勢守正弘は、備中守の五男である。
栄のことに話を戻そう。彼女は、町田昌豊と結婚後、浜町家の工房から独立して自分自身の画塾を開いた。
その時期の彼女は、早逝の逸材・融川法眼の一番弟子として江戸市中で画名も高く、さらに、内密にしたとはいえ、どこからともかく話が漏れ、窮地の浜町狩野家を救った賢婦としても知られていた。
従って、栄の画塾は大層流行った。自分の娘二人も含め、門弟百人を超えたと伝わる。
弟子は全員が女性で、武家の子女から町家の娘まで、身分を問わず受け入れた。絵画だけでなく、当時の女性にとって必要な教養や行儀作法まで教えたと思われる。
栄は、融川の死後、師の教えを胸に、見えない師の背中を追って、ひたむきに絵画の道を生きた。
江戸時代の絵師の世界は、無論、強烈な男社会である。栄の画名と画塾の評判が上がれば上がるほど、誹謗中傷や妨害などもあったであろう。
しかし、彼女は持ち前の才知と度胸で乗り切った。いや、彼女一人の力ではない。栄を中心に女性たちのネットワークが形成され、その女性たちが一致協力して、堂々と江戸の社会を生き抜いた。
融女謝師恩碑。それは、その証拠なのである。
天保七年(一八三六年)三月十九日に挙行された除幕式には、七十名近い女性が集まった。石碑の前から融川の墓の周囲、辺りの墓と墓の間の通路まで、思い思い色とりどりの着物や帯をまとい、ひしめいている。
そんな中、司会役の弟子が、緊張した口調で話し始めた。
「それでは、碑の建立にご協力くださった皆様をご紹介いたします。一門ですから、ほとんどの方は顔見知りと存じますが、本日は、融女先生の姉妹弟子にあたる方々のご来駕も賜っておりますので、お一人お一人紹介させていただきます。まずは手前にお並びの皆様から。寛興様、寛道様・・・」
石碑の裏面には、三列に分けて六十六の女性の名前が、しっかりと彫り込まれている。
<第一列二十三名>
寛興女、寛道女、寛知女、寛行女、寛典女、好山女、好良女、好知女、好定女、好秀女、好路女、好水女、好里女、好道女、好代女、好久女、善女、儀女、信女、成女、考女、辰女、好幸女
<第二列二十二名>
舜山女、望女、隆女、維女、拘女、慎女、籌女、橘女、蘭女、兼女、廣女、保女、泰女、暢女、(大久保)美喜女、久免女、左久女、野え女、久女、登和女、いは女、勢喜女
<第三列二十一名>
屋の女、み和女、ゑん女、とま女、すて女、楚渝女、ミ喜女、屋徒女、む路女、嘉左女、き佐女、勢登女、(榊はら)ミ幾女、多代女、い加女、登井女、留て女、房女、きん女、勇女、錦雅女
約二百年前、江戸時代の後期、栄と六十六名の女性が確かにここに存在した。ずらり並ぶ「女」が、どこか誇らしそうで、不思議な感動を覚える。
頭に「寛」の字が付くのは、融川寛信の弟子、すなわち、栄の姉妹弟子である。一方、「好」が付くのは、栄が自ら一字を与えた彼女の直弟子と思われる。中に一人、「舜」の一字が付く者がいる。家督を継いでわずか一年で亡くなった舜川昭信から一字拝領を受けたのだろう。名前だけの者は、入門して間もないか、教養課程だけの弟子かもしれない。
また、こうした石碑には珍しく、シンプルに下の名前だけが並んでいる。姓の記載は、同音の三名を識別するため、二名のみ。そこから、同時代に生きた「同志」といった印象を強く受ける。
画塾の雰囲気がそうであったのだろう。恐らく、融川の浜町狩野家の画塾に倣い、多くの女性たちが年齢や身分を問わず、絵画について自由に議論し、和気藹々とやっていたに違いない。
栄は一方で、締めるところは締める、厳しさも兼ね備えた先生だったと思われる。
東京都杉並区にある日蓮宗の古刹・堀之内妙法寺の境内に、栄が描いた絵馬が残っている。横八尺(約二・四メートル)、縦五尺(約一・五メートル)という巨大な絵馬だ。
現代に残る彼女の作品は、優しいタッチの花鳥図が多いが、この巨大な絵馬には、墨で二匹の龍が描かれている。
その堂々たる筆さばきを見ると、大きな板を前に、たっぷりと墨を含んだ太い筆を握り、迷いなく龍の姿を描き出す、凛とした武家女性の姿が想像できる。
この絵馬に栄は、「町田氏融女寛好」と署名すると共に、その少し右上に、「融川法眼寛信門人」と誇らしげに記している。
六十六名、わたくしを含めれば六十七名ですよ。ふふふ、賑やかでしょう。華やかでしょう。融川先生、少しは恩返しになったでしょうか。
栄は、遊び好きの融川、女好きの融川との噂もあった恩師のことを思い出し、心の中で語りかけた。その時、目の前を白い蝶が飛んだ。同時に、どこからか融川の声で何か言われたような気がした。
「大変結構だ」とも、「まだまだ足りんよ」とも。
はて、どちらかしら?
そこで司会に名を呼ばれた。
「先生、融女先生、ご挨拶をお願いします」
「ええ、分かりました」
栄は、融川の墓に向かって一礼した後、集まってくれた一同の顔をゆっくりと見回す。すらりとした長身に根結いの垂髪は娘時代のまま。しかし、当年四十四、その姿は自信に溢れ、どこから見ても堂々たる一門の主である。
栄は正面を向いて話し出す。その時、彼女の視線の先には、春の日に輝く鼓草の丘が広がっていた。
栄こと女絵師・融女寛好の没年については記録がない。そして、融女寛好に協力した六十六名の女性たちのその後ついても、記録は何も残っていない。
完
あとがき
この度は、「融女寛好 腹切り融川の後始末」を最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
折しも芸術の秋。どこかで作中に登場した絵師たちの作品と出会うことがあるかもしれません。その際は、是非、足を止めてじっくり見てあげて下さい。
次回作は、同じく狩野派絵師を主人公としながら、まったく毛色の違う物語になる予定です。そちらも併せて、今後ともよろしくお願いします。
令和五年十月十五日
仁獅寺永雪