18年目の『マタアイマショウ』
本日10月31日は、私の大好きなSEAMOの誕生日です。
SEAMOの熱烈なファンとして、SEAMOにまで届く奇跡を願いながら、この記事を投稿したいと思います。
まずは、SEAMOについての紹介を、
SEAMO OFFICIAL WEB SITE から抽出し、まとめてみました。
※シーモネーターとは、下ネタとターミネーターを組み合わせたもので、ライブでは海パンに天狗のお面をつけるという過激なスタイルでの活動も行われていました。
タイトルに入れた『マタアイマショウ』は、わたしがSEAMOを知るきっかけとなった曲で、2006年のリリースです。
その15年後の15th Anniversary ver. をアップロードしました。
と、曲紹介に入る前に、わたしのSEAMO愛を箇条書きでまとめてみます。
SEAMOと握手した思い出は2回。
寒い1月と花冷えのする4月で、わたしの手がよほど冷たかったのか、2回とも、「寒いなか、ありがとう」と同じ言葉をかけてもらったことが嬉しくて、そこに意味を感じてしまうファンならではの冥利に尽きました。
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では、この記事のメインとなる曲紹介です。
『マタアイマショウ』は、口コミやラジオなどで広まり、ロングヒットを記録。SEAMOはこの曲と『ルパン・ザ・ファイヤー』のミックスバージョンで2006年の紅白に出場しました。
恋愛の終わりを歌った曲ですが、わたしにとっては、終わりの希望を歌った曲となっています。
18年前と現在では、胸にささった歌詞が違うため、18年前・現在・共通の3つに分けて、歌詞の一部を抜粋しました。
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それにしても、歌詞にある「最後の最後」って、難しいです。
わたしなんて、最後、最後って、何でも伸ばし伸ばしにしてきました。
人への思いに限らず、物事に対する執着だとか、望みだとか、諸々の潮時を受け入れられずに、うやむやにして……。
そのくせ、うやむやにしてしまった出来事よりも、察してもらえなかった悲しみばかりを重大視して、本当の「終わり」に潜む大切なことを見逃してきたように思います。
そのしっぺ返しというか、何というか。
向田邦子さんの『春が来た』に描かれているような「しっぺ返し」を、今になって経験することとなりました。
物事に執着しすぎたための「しっぺ返し」で、ジタバタすることを恥ずかしく思うわたしが、自分でも嫌になるくらい慌てふためきました。
そんなわたしを見かねての、「終わらせかたを知らない」との真摯な忠告に対しては、こんなにも焦燥しているわたしに容赦ないことを……と思ってしまうありさまで、本当にトホホでした。
ところが、その翌朝、布団の中でその忠告を思い起こしたとたん、意固地なまでの執着心がすーっと消えていったのです。
「えっ? どうして?」と、ふっと悟ったみたいな心の変化に驚きましたが、こんなことも実際にあるのだと身をもって知りました。
”こんなこと”とは、500年に1人の高僧と称えられた白隠が、42歳の秋の夜、法華経を読んでいたときに、庭で鳴くコオロギの声を耳にして、ついに人生最大の悟りに至ったというエピソードです。コオロギの鳴き声で仏法の悟りを完成するなんて、なさそうでありそうな話だと、深く心に残っていました。
こうして、まるで仏教用語の解脱のごとく、負の執着心を手放せたことに「お陰さま」と感謝しつつも、周りに甘えて自己中心な態度をとってしまったという羞恥心は、まだ胸の中に燻っています。
でも、この羞恥心も、『マタアイマショウ』の歌詞をアレンジして、
と、時間が解決してくれると信じています。
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SEAMOにこの記事が届くなんて夢のまた夢ですが、買わないと当たらない宝くじと同じ発想で、その確率の低さも承知のうえで、冒頭と此処にて、「SEAMOに届け!」な気持ちを発表してみました。
お読み下さり、ありがとうございます。
明日から11月。
今年も残りあと2ヶ月ですね。
1年の締めくくりへ向かう11月と12月。
これまでの自分の転機が、この2ヶ月に集中しているからなのか、これからもそうなると予感しているからなのか、この時期、わたしの気分はキュッと引き締まります。
それでは、そろそろ、このへんで。