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京急の街「生麦 」|憧憬としてのベイブリッジ
僕が幼稚園生のころだったと思う。
家族でベイブリッジに行った。
大黒側には橋の袂に公園があって、父と滑り台で遊んだらしい。
父ははしゃいでいたのだろう。
変なふうに滑って、ぎっくり腰になったらしい。
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「ベイブリッジに行く」という言葉が成り立つ時代だった。
わざわざ見に行くようなものだった。
今となっては車で通過するだけ。
減速に注意しながら車線変更する車を煩わしく思いながら走るだけの橋。
というか道路。
大人になった僕は、ちっぽけな身一つで橋の袂まで行った。
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柱の真下から道路の裏側を見上げたとき、その規模感に戦慄した。
これは巨大建築だ。
規則正しく並ぶ大きな柱は神殿のそれを見ているようで、神々しささえ感じた。と同時に、押しつぶされそうな規模感を目の前に感じてめまいがするようだった。
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今この柱が折れたら即死だな、と思った。
人の力ではどうもこうもしようがないようなもの。
それを人の力で作った。
約35年も前に。
生麦駅とベイブリッジ
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生麦駅はKK31。横浜と川崎のちょうど中間くらいの位置にあり、湾岸地域に隣接している駅である。「普通」しか止まらないので少々不便かもしれない。品川までなら、京急川崎で快特や特急に乗り換えをし、20分強で着く距離だ。
ベイブリッジは生麦からは結構遠い。徒歩で小一時間かかる。
埋め立て地域を一島越えて行くのだから、歩くなんて人はいないのだろう。
ベイブリッジはWikipediaによると以下のような説明がある。
1989年(平成元年)9月27日に開通した神奈川県横浜市にある長さ860 m(中央支間長460 m)の斜張橋である。東京港方面と横浜港を結ぶ港湾物流の一端を担うことにより、都市部の渋滞を緩和する重要な輸送路である。
「都市部の渋滞を緩和する?」
あの巨大な橋がそんな目的のために建てられたのかと思うと拍子抜けする。
計画段階では東京港最大の大井コンテナ埠頭が建設される前であったため、横浜港の需要はまだ高かった。そのため東京側から本牧埠頭に向かうためには神奈川県庁や横浜市役所などがある横浜の中心部の関内を通らなければならず、そのため国道133号に交通が集中し、モータリゼーションによる交通量の増加も相まって慢性的な渋滞が発生していた。そこで横浜市六大事業において、本牧埠頭へのバイパス道路首都高速湾岸線の一部という役割に加え、横浜の新たなシンボルとして建設を計画。当時の建設省(現:国土交通省)に橋の建設を積極的に働きかけ、難工事の末に開通した。
ここでいう横浜市横浜市六大事業は1964年に作成されたらしい。1964年の日本といえば
・OECDに加盟
・東海道新幹線が開通
・東京オリンピック開催
など、日本の戦後復興、経済成長を象徴するような出来事が連続した。
上記で述べているモータリゼーションもまた、当時の世相を表す言葉だ。「マイ・カー」という言葉が1961年から言われるになった。
マイ・カー(1961)〈星野芳郎〉一「マイ・カー時代とは、たくさんの国民が、自分たちの足として、自由自在にクルマをつかう時代である」
細かくはトヨタが解説をしている。60年代のすさまじい変化が数字で読み取れる。現在の日本の様相とはまったく違うように感じる。
そう感じるようになってしまった。
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そんな中、「横浜市六大事業」が考案されたのであった。
主な内容は
・都心部強化事業
・港北ニュータウン事業
・金沢地先埋立事業
・高速鉄道(地下鉄)建設事業
・高速道路網建設事業
・横浜港 ベイブリッジ建設事業
とされている。
ここに横浜市が公表する資料がある。
なお、ベイブリッジの建設に関わったのは、三菱・IHI・川田JV,JFE・横河・住重JVということで、川田工業のホームページに行くとベイブリッジの設計に関する資料がPDFで読める。(何が書かれているのか、ほぼわからない)
https://www.kawada.co.jp/technology/gihou/pdf/vol09/09_ronbun03.pdf
わからないなりに、技術力の結晶が、この橋であろうことがなんとなく伝わってくる。
高度経済成長の憧憬
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石原慎太郎は1955年の著作「太陽の季節」で以下のように綴っている。
この年頃の彼等にあたっては、人間の持つすべての感情は物質化してしまうのだ。最も大切な恋すらがそうでなかったか。大体彼等の内で恋などと言う言葉は、常に戯画的な意味合いでしか使われたことがない。
(略)
もしも大人達が、自分等の造った世界を壊されまいと後世大事にするなら、彼等が恐れなくてはならぬのは共産党なんぞでは決してない筈だ。が実際はそれを恐れてはならない。彼等はこの乾いた地盤の上に、知らずと自身の手で新しい情操とモラルを生み、そしてその新しきものの内、更に新しい人間が育って行くのではないか。砂漠に乾きながらも誇らかにサボテンの花が咲くように、この乾いた地盤に咲いた花達は、己れの土壌を乾いたと思わぬだけに悲劇的であった。
人々が彼等を非難する土台となす大人達のモラルこそ、実は彼等が激しく嫌悪し、無意識に壊そうとしているものなのだ。彼等は徳と言うものの味気なさと退屈さをいやという程知っている。大人達が拡げたと思った世界は、実際には逆に狭められているのだ。彼等はもっと開けっ拡げた生々しい世界を要求する。一体、人間の生のままの感情を、いちいち物に見たてて測るやり方を誰が最初にやり出したのだ。
その頃からベイブリッジができるまで約30年。この短いとも長いともとれる時代の変化を小説の主人公の”竜哉”はどのように見るのだろう。
そして僕の両親もまた、この時代を生きた二人である。
二人はベイブリッジに何を見ていたのだろう。
僕に何を見せたかったのだろうか。
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