
SNSに載せない写真を撮っているか?
以前にここで、「写真をやめる」宣言をした。
ただ、実際はちょっと違う。
意味するのは「SNS、もっと言えばインターネットに載せる写真を撮るのをやめた」ということだった。
(ただ、それもまた見直して、こうしてnoteを再開している。)
ごく個人的な写真を撮る

この一年で友人が2組結婚した
どちらもとても親しい友人だと思っていて心の底からおめでとうと言いたいし、幸せになってほしい。
ありがたいことに、2組とも「カップルフォトを撮って欲しい」と声をかけてくれた。
このnoteの読者さんは僕の陰鬱気味なモノクロ写真しか知らないと思うけれど、実は仕事でビジネスポートレートを年間30本〜40本ほど撮っているし、モデル撮影やアーティストの宣材写真撮影もやってきてはいるから、ある程度の自信はあった。
ただ、「僕の写真で何かお役に立てば」くらいの気持ちもありつつ、今回は被写体に真剣に向き合うことを徹底的に取り組もうという気概を持って引き受けた。
そしてこの撮影が僕にとっての「写真」の存在を根底から覆すことになる。
知らず知らずのうちに「インターネットに載せる」が前提になっている

ここでその撮影をどうやってやったのか、を自慢するつもりはない。
それより、僕の気づきを語りたい。
それは、「僕は『写真を撮ろう』と最初に思ったそのときから、その写真は『インターネットに載せること』を前提にしていた」ということだ。
これに気づいたときは面食らった。
撮る前から、今から撮るこの写真を見る人はanonymousと決めている。
嬉しがられようと悲しがられようと、そんなの知らずに写真をSNSに投稿して、いいねやコメントに一喜一憂する。
なにか自分の写真がどこに向かっているのかわからないような、巨大なものに振り回されて写真を撮らされているような、そういう感覚に陥った。
そして今回僕は、目の前のカップルの写真を、少なくとも自分からはSNSに載せないことを決意して取り組んだ。
この写真は二人だけが見る。その二人が見て、今でも遠い未来でも、なにかよかったと思えることがあればそれでいい。
そのために写真は、撮影は、どうあったらいいか。
二人のことを聞き、二人にとって意味がある写真になるように考えた。
撮影は大成功した。
3人以上はいいねがもらえなくったっていい。
二人からの「2いいね」だけがもらえれば、それはどんなにたくさんのanonymousから「いいね」がつく写真よりも価値があると思えた。
「映え」の空虚さよ

少し抽象化して考える。
カップルフォトでも、いわゆる「映え」な写真というのは多くの人がイメージできるものになっていると思う。SNSのおかげだ。
問題は「その『映え』ているシーンが二人にとってどんな意味があるのか」ということだと思う。
カップルフォトだけではない。
いかなる写真でも、「こんな感じが一般的に映えてるやつ」というイメージをもった瞬間、それは個別の意味を失う。
そして今、僕らは「『映え』を撮る」こと自体を問われているときだと思う。なぜなら、それを一番優秀にやってくれるのは、もはやAIだからだ。
人間は「一般的な100点満点を出すこと」において、AIに勝てなくなった。
いや、むしろその「100点満点」はAIが作っているのでは???
「自分でカメラを握る」ことに意味をなにか見出したいなら、とことん目の前の被写体を受容し、迫り、ごく個人的な表現に徹するしかないと思う。
その瞬間にそれができるのは、自分と相手との関係性のなかで、自分の目で見た世界のみなのだから。