会社なりゆき放浪記④ リトル半沢直樹散る 金融機関の闇
手記概要
高校時代のヤスオには確固たる将来像はなく、とりあえず入れる大学に進学、4年を経てもなお明確な職業観を持てなかった。大手企業にひとしきり落ちたあとに、ブランド名だけで有名企業の子会社に入社。そこで平穏に安定したサラリーマン生活が始まり続いていくと漠然と予想していた。
しかし親会社への出向を機に、ヤスオの人生は予期せぬ方向に動き始める。
IT企業入社⇒建設業界⇒シンクタンク系IT⇒金融機関へ出向
業界、企業ごとに全く異なる価値観、風土、世界があった・・・成功、挫折、降格、左遷そして恋愛の日々・・・50代で組織を離れフリーターの道を歩む。昭和から令和までの時代変遷と業界事情を描きます。
<目次>
第1幕 これって産業スパイ? IT業界の覇権争
第2幕 ガラスの錦鯉御殿 建築業界の栄華
第3幕 シンクタンクで踏まれ沈む 銀行文化の洗礼
第4幕 リトル半沢直樹散る 金融機関の闇
第5幕 世界が集まるパウダーワールド 北海道でフリーターデビュー
第6幕 初めてのC、さよならC 50の手習い職業訓練校
第7幕 学校の光と影 ICT支援員の現実
第8幕 日雇いの悲哀 底辺の下があった
第9幕 天国はあったのか? 小さな仕事場で
第4幕 リトル半沢直樹散る 金融会社の闇
ドラマ「半沢直樹」はスリルがあり勧善懲悪の痛快さがあって目が離せなかった。その一方でそのドラマはヤスオに胸の痛みを蘇えらせた。金融業界の縦社会の底辺で過ごした10数年間の傷はいつまでも癒えることはない。
E社で勝ち目のない新規開拓のミッションを背負い、パワハラで自尊心を叩かれ、やっと成し遂げた新規顧客獲得もあっけなく消滅し、挙げ句に大幅な収入ダウンで痛手を負ったヤスオは、新天地を求めた。子会社E情報サービス社が新たに開始するクレジットカードF社の事務請負の仕事に就いた。
F社事務センターは都心はずれの10階建てビルにあった。朝9時前、エントランスホールはエレベータを待つ行列ができていた。まず、違和感を感じたのはほとんどが女性であったこと。数百人が勤務するその事務センターは8割方が女性であった。派遣社員は服装も様々で、ラフなへそ出しTシャツ姿もあった。男子校を出て以来、女性に囲まれる経験のないヤスオにとっては初めて見る景色であった。
ヤスオの配属は、クレジットカードの決済ができなかった会員への個別対応を行う決済班とよばれる20人ほどのチームであった。男子社員はヤスオを含め3名で、女子社員が数名、それ以外は派遣の女子社員で構成されていた。チームを率いる係長のヨシザワ氏に対して、女子社員が苦情の声を容赦なく浴びせる異様な職場であった。派遣社員の態度が悪い、カード会員からのクレーム処理が辛い、マニュアルが曖昧で判断に困る・・・脈絡なく不平不満が飛び出した。ヤスオはとんでもない職場に来たものだと嫌な感触を持ちながらも、この場をどう治めたらいいか思案にくれた。ヨシザワ係長は、ただ「うぅー」と唸りながら、何も言葉を返せないでいた。
手続きの不備でクレジットカード利用代金の銀行引き落としができなくなると、その処理を決済班は担っていた。例えば口座振替の手続にて、金融機関届け印が押されていないと契約が成立せず、決済されない。それが判明するとクレジットカード会社は会員に手続きのやり直しの書面を送付し、引き落としできなかったカード利用代金を振り込むように会員に案内する。会員からするとカードが発行されたので手続き完了と思ってカードを利用した後に、支払いを要求されるので、不満と不信感を抱く。そういう会員に朝から晩まで電話を掛け続けて振込をお願いすることは相当にストレスの溜まる仕事であった。
さらにF社決済班はもっと深刻な事態に悩まされていた。F社は中堅クレジットカード会社の事務運用を複数受託している。中堅クレジットカード会社は自前でシステムを構築し要員を揃えるよりF社に委託した方が効率的なのである。受託先のなかにクレジットカード事業を立ち上げた携帯電話会社があった。その携帯電話会社は一気にカード会員を獲得するために携帯電話ショップに過大なノルマを課したのであろう。誤った案内による会員勧誘が横行していた。例えば、電話代金はカード決済が必須になる、印鑑はなんでもよい、家族の銀行口座でよい・・・等々。それがカード会員獲得のための意図的な嘘なのか、未熟なショップ店員の勘違いかはわからない。しかし、いざカードが発行されてみると引き落とし日に決済できない会員が続出していた。
時給で働く派遣社員は、そのストレスの多い業務に不満を持ち、待遇改善を迫ってきたし、その派遣社員を管理する女子社員も大きな苛立ちを抱えていた。しかし会社としては、コスト増になる待遇改善も教育に時間がかかる職務ローテーションも導入しなかった。人事面談でローテーションを訴えた女子社員に対して、上席の部長は「他班のひとは決済班に行きたがらないから無理だよ」と神経を逆なでするよう発言をする始末であった。幹部社員たちは決済班との関わりを避けていた。解決できない問題である以上見てみぬふりを決め込んでいたのだろう。そんな状況で、わざわざ親会社から出向してきたヤスオは格好の人材であった。決済班に着任早々係長として運営責任を負うことになった。
電話は鳴りっぱなしで、ヤスオが休憩する余裕は全くなかった。そして、クレームに発展すると責任者としてヤスオが出ざるを得なかった。朝から夕方までほぼクレーム対応を続け、夜21時頃まで事務処理をするという生活となった。
クレーム対応の連続はボディーブローのようにヤスオの精神を蝕んだ。怒り狂って暴言を吐きまくる顧客はまだよい、人間は20分以上は怒りを持続させるエネルギーは続かないので、じっと耐えていればやがておさまる。難儀なのは確信犯のクレーマーである。あらゆる角度からこちらを攻め続け、対応にボロが出てくれば、そこを突いて有利な条件を引き出そうとする意図が見えた。そこも罠にかからないように慎重に対応しなければならない。また、終わり無いクレーマーにも手を焼いた。こちらが説明しても、一言「納得できない」を繰り返し、言葉がなくなると、それを責められた。
かつて、住宅水回機器のD社に勤務していたときは、クレームにおいて、商品を交換するとか、返品するとか、モノで解決するすべがあった。しかし、金融業のF社は金品で解決する方法も一切の運用ルールの特例も認めておらず、ヤスオたちは何の武器も持たない丸腰で、ただ叩かれ続けるしかなかった。
会員の中には同情するべき悲惨な話も数多くあった。クレジットカードは決済できなくなった途端に利用不可となる。新幹線に乗れなかった、接待でカードを使用できなかった、人生初の海外旅行中にカードが使用できなくなり孫にお土産も買えなかった・・・。その怒りや悲しみ、辛さをただ受け留めることは、やりきれない気持ちであった。
また会員には一切落ち度はなく、F社のシステムの不備による事故もあった。信じられないことではあるが、当時ある一定の条件のもとではあるが、カード会社も銀行も相手が名義確認するという前提で自社側で名義確認をしないで決済するという穴があった。ちょうど、銀行の統廃合が進んでいた時期なので、カード会員が旧支店番号を指定するケースが多く、別支店の同じ口座番号の他人口座からカード利用代金が引き落とされてしまう事故が発生することがあった。これはF社のシステムの問題であり、事務を受託しているE情報サービス社には何の責任もないことであるが、ヤスオが顧客対応の矢面に立たされた。F社は汚れ役をE情報サービス社に負わせ、E情報サービス社幹部は現場担当に押し付けて、現場の苦境は見てみぬふりであった。
こうした状況下で決済班のヨシザワ係長は業務中に倒れて救急車で搬出され、一ヶ月復帰することはなかった。ヨシザワ係長が復帰した後、もはや歩く意欲もなくなるまで心身が疲弊しきったヤスオは、係長の返上を願い出た。 係長職の返上は認められ平社員になったものの、社員の増員はなく業務は相変わらずクレーム対応が続いた。顧客対応のみならず、女子社員や派遣社員それぞれから不満と苦情で突き上げられ、両面から責められる日々であった。半年後、銀行から部長職が天下ってきた。これで負担が減ると期待するもののすぐに裏切られた。あるクレーム対応をその部長に振ったところ、その部長は即座に白旗を上げた。「君が最後の砦として対応しなさい」その言葉を残し、その後は決済班の島に近づくことはなかった。
ヤスオは明らかに精神に破綻をきたしていた。常に怒りの感情に支配され、社内でも、また通勤途中でも感情を制御できず些細な声で大声を上げるようになった。あるいは駅のプラットフォームから飛び降りれば全てから解放されるだろうか?との思いもよぎることもあった。ヤスオは救いを求めて、心療内科というものを受診してみた。女医は今の業務環境やヤスオの生い立ちなどのヒアリングし、血液検査である値の低さを指摘し、値を上げる薬を処方した。その薬を頼りにして、ヤスオは決済班の仕事を続けた。20代、30代で転職を経験した彼であるが、子どもが中学に進学した今となっては、もはや迂闊に退職はできない。そもそも中途採用する職場というものは何か問題があって人を補充するのであって、そこに安泰はないことは、E社とE情報サービス社で痛感していた。
決済班での生活が2年におよんだとき、人事面接で精神的に危機的な状況であることを告げた。もはや強がる余裕は残っていなかった。その後、幸いにして管理部門への異動が実現した。その後を引き継いだのは、中途採用されたマキタ氏であった。彼には気の毒なことをしたが、交代でヤスオは救われた。
その2年間でヤスオが実感したこと…それは、苦しみや痛みは当人以外はわからない、ということ。クレーム処理の出口のない日々のなかで、ヤスオは不正行為を働いた。カード利用代金の振込を会員に案内するべきところ、自らのお金を会員に代わってカード会社に振り込んだ。クレーム客に対しては、自腹で購入した商品券を送付し、折衝を終了させた。電車に飛び込むところまで追い込まれていた彼は、目の前の苦痛から逃れるためにそうした手を使ったのだ。しかし、その告白を聞いた同僚も上司も、その行為を責めるだけであった。そこまで追い込まれ、辛かったのかと寄り添う人物は誰もいなかった。苦しむ人間がいても会社は見てみぬふりをするだけである。なぜなら、そこに手を差し伸べたら代わりに自分がその苦しみを背負う、または別の誰かに背負わせることになるからである。軍隊では士官は誰かを最前線に送らなければならない。ヤスオは決済班という最前線で2年間鉄砲にさらされた。中途入社のマキタ氏を身代わりにして自らの命をつなぎ留めた。
なお、クレーム処理から解放され、心療内科に薬の服用も通院も不要と申し入れたところ、女医は薬の服用を続けなさいと言い渡してきた。医師側としては病気のレッテルを貼って固定客化した方が経営メリットになるのである。世の中はうつ病が増加し蔓延しているが、固定客を増やすという医療側の事情も背景にあるのではないか?医療にも信頼はもてなくなった。
クレーム対応という苦しみの職場であったが、そこでヤスオは人生最大のモテ期を体験した。女子が多い職場で、マキという20代後半の派遣社員からアプローチを受けたのである。サッカー好きのヤスオはJリーグ観戦にスタジアムへ足を運んだ。そこで偶然ばったりとマキに会ったのである。ひとしきりサッカーについて言葉を交わして、それぞれの席に向かった。後日、会社で雑談しているとき、ヤスオが毎週土曜に河川敷のサッカー場で仲間とサッカーをやっていることを伝えた。ある土曜日、いつものように河川敷でサッカーの試合をしていると、近くの草むらに一人の女性の姿が目に入った。よく見るとマキであったあ。まさか、わざわざ来るとも思っていなかったので、ちょっと驚きときめいた。誰かに見られているということはモチベーションにつながる。いつもより、動き回った彼は久し振りの得点をあげ、満足して試合を終えた。帰りにマキに話しかけると、「来ちゃった。かっこよかったよ。また来たい」というのであった。ヤスオは複雑な心境になった。彼女は若さはあったものの、好みのルックスではなかったのである。
マキの行動は止まらなかった。「仕事で困っていることがある、相談に乗って欲しい、会社帰りに◯◯という店に来て・・・」と迫ってきた。決済班が荒れるなか、自分に協力的なマキには、何かと仕事の用事を頼んでおり、彼女の相談ごとを無下にはできなかった。しかし、仕事を切り上げて店に入ると、仕事の話はそれほど深刻ではなく、他愛ない話が続いた。ヤスオの誕生日やバレンタインデーには手作りのお菓子が渡された。また、河川敷サッカーでお弁当を持参してきたこともあった。40代で妻子持ちの自分にどうしてこんな熱心なアプローチしてくるのか、全く心当たりがない。多分、偶然スタジアムで出会ったとき、彼女は単純に運命の人と彼を認識してしまったとしか思えない。何事もNOといえない気弱なヤスオは、ずるずるとマキの誘いを断れきれず何度か食事をした。ただし好みのタイプではなかったので手に触れることはななかった。しかしながら、マキの言動はエスカレートし、「わたし、今度一人暮らしするから、引っ越しを手伝って欲しい」と甘えた声で恋人気取りの発言までするようになった。ここに及んで、ヤスオは不愉快な気持ちになった。ちょうど、他の女子社員から「マキさんと関係が噂になってますよ!!」と忠告を受けたところであった。それを理由に彼女の誘いを断ち、携帯電話の連絡先を削除した。
仕事で苦労する反面、賑やかで華もある職場であった。振り返ってみると、ヤスオは仕事運が落ちると異性運が上がるという傾向にあった。女子の多いこの職場では、女子との二人での食事の機会はことかかなかった。また女子会に男子ひとり誘われることもあった。食事以上の関係に発展した相手も何人かいた。ヤスオと同年代のある女性は長年金融機関で働いてきた堅い仕事ぶりの人物であったが、若いときにはバブルで弾けていた一面も持っていた。タレントのYOUを思わせる自由奔放で怪しげな雰囲気の女性だった。酒に酔うとブレーキが破壊され、鋭い目線でヤスオをロックオンし店のカウンターでも、店外の路上でもやたらとキスをせがむのである。「私、ハプニングバー行ったことあるよ・・・」彼女はヤスオにがんがん酒を飲ませる。理性を失ったヤスオは断れずに彼女の要求に従った。駅の改札で座り込み、キスを求めてくることもあった。ある時は、駅ビルの屋上庭園のベンチでお互いの下着に手を入れるという法に触れる行為に及ぶ時があった。ヤスオは酔って前後不覚であったが、もし通報されていたらと思うと怖ろしい事態である。翌朝は二日酔いで吐き気に襲われながら通勤した。彼女は「何も覚えていない、私なにかしたかしら?」としらをきる。意図的にブレーキを破壊していたとしか思えない。
決済班から管理スタッフに転じてから、仕事は順調で、30代のときマネジメントの勉強を積んでいたヤスオにとって管理の仕事は本領発揮の場であった。クレジットカード会社の運用を受託するために創設された新しい組織はマネジメントがバラバラであった。ヤスオは自ら企画し、品質、顧客満足、従業員満足を向上させる事業改革プロジェクトを立ち上げた。役員のお墨付きをもらい、各チームからプロジェクト委員を選出してもらい、部門をよくするための議論と調査を進めた。30代のとき経営コンサルティングの勉強をしたヤスオにとって実践の場、力試しの場であった。3ヶ月で現状調査と改善計画をレポートをまとめ、役員と部長にプレゼンし、次フェーズから実践フェーズに入る構想であった。しかし、後ろ盾の役員は定年退職し、残った部長たちは、理想論より足もとの諸問題の解決に目線がいっていて、ヤスオの構想は空回りしてしまった。人を動かすには熱い情熱と粘り強い信念が欠かせない。教科書通りの正論は受け入れられない。時には飲みながら議論し、人間力で人を巻き込みことも必要である。そこはヤスオが最も苦手とするところであり、自らプロジェクトを終了させ幕を降ろした。それでもサラリーマンとして自分のやりたい企画を立ち上げ、自分のできることをやりきったことは充実した本当に幸せな時間だった。
プロジェクトを終わらせてからは事務方としてスタッフ業務に従事した。幹部からは重用され、役員と部長連中が出席する会議にも出席し、取引先との定例会もヤスオが仕切っていた。返上した係長に復帰し、次は課長に昇進すると信じていた。ある部長が定年退職し、その業務を引継ぎながら課長昇進を確信していたが、結果はヤスオより若く、後から配属されたものが課長になっていった。彼は目立って優秀というわけではなく、無難なイエスマンであった。オープンでフラットなA社で育ったヤスオには上司の指示を鵜呑みにするという価値観はない。納得できない指示は拒否し、ときには別の案や施策を提言した。しかし、縦社会の銀行系会社において、指示を聞かない部下はやっかいな存在でしかなかったのであろう。事務方として重用されながらも役職につくことはないのだと悟った。
人生において目指すところは富と名声、サラリーマンにとっては昇給と昇進である。しかし、E社時代に大幅減給され、そのまま出向先で昇給することもなく、そして昇進からも見放されたヤスオは自由に好きなように振る舞うことを決めた。
E情報サービス社では女子と軽い遊びは多かったものの、深い関係は控えてきた。しかし昇進がないと悟ったとき、思いを寄せるアサミという女子社員への歯止めはなくなった。10年前にE社から出向してたときから時から気になる存在であった。化粧も身なりも派手目で、男としては征服欲を刺激する女性であった。当時20代の彼女にとっては40代のヤスオは異性という存在ではなかったはずだ。しかし、それから10年の歳月が経ち、30代になった彼女には心の隙間が生じていたようだった。仕事への不満や悩みを聞きながら、二人で会う機会が増えてきた。昇進がなくなり会社員としての自制心が効かなくなったヤスオは、二人で食事をしたあと中之島の川沿いを歩きながら、彼女への思いを告げた。川面にオフィスビルの夜景が怪しく映っていた。
彼女は困惑し、手でヤスオを遠ざけ明確に拒絶した。家庭があり、また年齢も大きくかけ離れた状況からは当然の結果であった。ヤスオは我に返り、浅はかな行為を自己嫌悪した。夢から醒め自分が恥ずかしく落ち込んだ。
翌日の晩、予想しないことが起きた。彼女からLINEが届いた。恐る恐る見るとそこには「付き合ってみる」との文字が記されていた。彼女にどんな心境の変化があったのかわからない。驚きと嬉しさ、欲望、そして家族に対する後ろめたさ、そしてこれから起こるであろう予測不能なことへの不安と恐怖で頭は破裂しそうであった。しかし、サイを振ってしまった以上、もはや後戻りはできない。
派手で活発な雰囲気のアサミであったが、実は男性経験はあまりないようだった。女子校を卒業し、男子の少ない事務センターで働く彼女は、初めて男子に告白され、まだ知らない世界の誘惑に負けたのだった。高校生が初めて異性と付き合うような新鮮な時間が始まった。仕事終わりに、裏路地でこっそり落ち合い、土佐堀川や堂島川沿いを手をつないで散歩するような付き合いであった。ヤスオも20代の頃の純情だったころの感覚を思い出しその世界に酔い、そして溺れた。歳を経ても恋愛のときめきは消えることはない。
昇格がないと悟ったヤスオはある意味吹っ切れた思いを感じた。組織において理不尽なことは数あるが、なかなかそれに抗うことは難しい。誰もが不承不承自分を押し殺して振る舞うものだ。そして赤ちょうちんで酒を飲んでくだを巻くのが会社員の姿ではないだろうか?しかし、レールを外れたことにより窮屈な世界から解放され自由を得た気持ちになった。
E情報サービス社では終わりなきリストラが続いていた。F社のクレジットカード事務センター運用を受託するにあたり、社内から人をかき集めただけではなく、キャリア採用で多くの人材を増員した。スタート時は業務量は右肩上がりであった。クレジットカード業界全体が成長するなか、F社は中小のクレジットカード会社の運用を請負し、業務規模を拡大させていたからである。しかし、請け負ったクレジットカード会社において当初はカード会員が一気に増加するものの、やがて新規会員の増加は落ち着いてくる。国民一人ひとりが3枚以上のクレジットカードを保有するようになると飽和状態になってくる。スタート当初にクレームの山を築いた某携帯電話会社のクレジットカードも、5年ほど経過して業務が安定してくると、業務委託をやめて自社運用に切り替えるという。また、世の中全体にインターネットが普及してくるとネットでの手続きが増えて紙の申込書や届けは減り事務量の減少につながった。そういう背景があって、E情報サービス社では業務量は業務開始3年目をピークにそこから毎年下がり続ける状況となった。要員がコストとなり利益を圧迫し、やがて赤字体質に転落した。
数百名の人員の半数を占める派遣社員は、3ヶ月の契約更新ごとに契約が打ち切られた。右肩上がりの時代は歓迎会続きで大所帯になったが、今度は送別会が続くようになった。だれから契約が切られるのか?息苦しい雰囲気が職場を覆う。幹部から人選を迫られるときの現場責任者はつらい。仕事が忙しく苦しい時は彼女たちにさんざん無理をお願いして残業に協力してもらったものだ。それに、ひとの能力や業務上の貢献は一様ではない。手は遅くても丁寧だったり、周囲への気配りができるチームに欠かせない存在もある。あるいはシングルマザーで子育てに奮闘しているというプライベート事情もある。派遣切りは現場で一緒に働くものにとってつらい現実であった。
経営の目的が利益の追求にあり売上が確保できない以上は、コストカットは避けられない。しかしE情報サービス社のリストラの進め方は、現場での引継ぎや要員バランスを全く配慮しない、一方的かつ強引なやり方だった。異動は受け入れ先が見つかり次第即実行される。残った要員で業務が遂行できるかのシミュレーションなく、決定事項として現場に通達された。その結果、業務運営を担う社員には負荷がどんどん積み重なった。残業増加はもちろん、休暇をとれない、昼休憩を削ることを余儀なくされていく。一方、会社に対して労働基準監督署からの指導もあり残業規制もかかる。一人あたり業務量が増加する中で残業削減令の圧力も強くなり、残業が多い社員は”生産性が低い”という評価で肩身が狭い思いに耐えなければならない。申告されない隠れ残業、サービス残業が水面下で増える。業務運営体制が維持できないリストラはミスやトラブル発生にもつながる。表に現れるミスでだけではなく、ヒヤリハットも増加する、するとその対策のためにチェック作業が増やされて、現場の負担がますます増加するという悪循環にもつながった。
現場を無視して数字のみを追求し、そのために中間管理職に圧力を掛け続ける役員の姿勢をヤスオは苦々しくみていた。要員数は業務量に比例するわけでわけではなく、業務運営のための最低必要工数がある。それを調査実績をもとに進言したが考慮はされなかった。昼休憩をとることもできず、おにぎり片手に仕事をおこなっているという現場の声も聞く耳は持たなかった。取引先F社に対して単価改善の交渉を行うわけでもなく、現場だけにコストダウンのしわ寄せが押し付けされた。
ハリモトという役員はヤスオと同年代。メガバンクの孫会社であるE情報サービス社の役員は銀行からの天下りで占められていたが、彼だけは生え抜きのプロ−パー社員であった。高卒の彼はブルドーザーのような力技で営業実績を上げてきた人物であり、声の大きさだけで周囲を動かしてきた。性格が地味ながらマネジメント理論に基づきコトを進めるヤスオとは対象的な人物であった。孫会社となると天下りする銀行員にも切れ者はいない。数年間の任期を無事に終えることだけを考える事なかれ主義に染まった連中であり、威圧感のあるハリモトを制するものはE情報サービス社にはいなかった。ハリモトは業績維持のために部員に辛苦を押し付ける一方で、社内では敵なしの傍若無人の振る舞いであった。人事という甘い餌で手なづけた人材で周囲を固めながら、彼に従わないものは容赦なく叩き潰した。ヤスオを昇進させなかったのも彼の一存である。ハリモトとその取り巻きは”ファミリー”と社員に呼ばれていた。仕事帰りの呑み屋だけではなく、夏休みにはファミリーで旅行し、正月には揃って宴を催した。ファミリーのなかには役職者に登用された女子社員もいて、毎度の旅行にも同行していることを社員は冷めた目でみていた。社員の多くは反発心を感じていたが、組織のなかで人事権を握られている以上、ファミリーには何も言えなかった。
あるとき事務ミスが原因で重大トラブルが発生した。半日以内に中間報告をまとめるため、すぐに調査に取りかかる必要があった。品質管理を担当するヤスオはすぐに調査に着手しようとしたが、感情的になったハリモトは、ただヤスオを叱責し罵倒した。ヤスオは「そんなことはどうでもいい、時間がないから会議は終了します」と言って会議を打ち切った。「この野郎、見ていろ・・・」というハリモトの唸りが電話会議のスピーカから消えた。それがハリモトとヤスオの対決の始まりであった。社員の大半はハリモトに批判的で、彼の悪い情報はいろいろ寄せられていた。そのなかで請求の水増しにヤスオは気付いた。ハリモトの管轄の第一事業部はクレジットカードF社の業務、第二事業部はメガバンクの業務を請け負っていた。第一事業部は赤字でリストラ中である一方、第二事業部は比較的余裕はあった。第二事業部に所属しながら、応援で第一事業部で働く複数名の要員が第一事業部と第二事業部の請求書の工数内訳に二重に記されていた。第二事業部の事務員から請求書とその根拠となる工数表を入手した。資料の提供に皆協力的だった。「ハリモトを痛い目にあわせてやって」と事務員から背中を押された。
ハリモトは私腹を肥やしていたわけではない。ただし自部門の業績をよく見せるために手段を選ばない姿勢には嫌悪感を覚えた。自部門の業績をよくすることは彼の個人的成績に直結することだからである。とはいえ、役員を正面から攻めることはサラリーマンとしては恐ろしかった。声が大きくいかつい面構えのハリモトは威圧感があった。それでも、資料を提供してくれた仲間たちの声に報いるためには後には引けなかった。会社員生活約30年、最も緊張した場面かもしれない。
ハリモトを追求する場として部内の予算会議をヤスオは選んだ。まず第一事業部の部長が月次報告を行う。続いて第二事業部の部長が実績を報告する。そこで、工数内訳にヤスオは突っ込む。
「この2人月はだれを指しますか?」 ヤスオ
「◯◯さん、△△さんの2名です」 第二事業部 部長
「その2名は、該当月は第一事業部で従事していますよね?」 ヤスオ
「銀行と総額で合意しているからいいんです」 第二事業部 部長
「存在しないものを請求書に載せたら水増しでしょ」 ヤスオ
「わしが認めているからいいんだ!がたがた言うな!」 ハリモト
「役員が認めているということは公になってもいいんですね?」 ヤスオ
「お前は出ていけ!!!」 ハリモト
こうしてヤスオは予算会議の席をたった。部長の細工ではなくハリモト自身の仕業であることの言質がとれたので目的は達成した。宿敵のハリモトに真正面から向き合い一撃を加えたことに高揚しながら満足した。
その後、ヤスオはそのことを公にしたのか?銀行のコンプライアンス窓口に連絡する道はあった。ただ彼の闘争心は燃え尽きた。それ以上闘う気力も勇気ももはや残っていなかった。とどめを刺さない以上は振り上げた刀をどこかに落ち着かせなければならない。ヤスオは刀を納めた。ハリモトには「私の勘違いでした」と詫びをいれる形をとった。ハリモトは怒ることなく「そうか、それでいい」と笑顔を返した。彼もほっと安堵したのだろう。天敵を一刺ししたものの致命傷は与えることなく、斬ることもできなかった。ヤスオはリトル半沢直樹になれなかった。
ハリモトとは一旦休戦状態になったものの、彼の公私での横暴な振る舞いは収まることはなく、ヤスオは水面下での攻撃は止めなかった。あるシステムトラブルに対して、E情報サービス社としては単なる現場ミスということでF社に対して報告を上げる算段であった。しかし実態は、E情報サービス社の組織的問題があった。そこでヤスオは仕様書での引継ぎがなく、品質管理に責任があることをF社担当者に裏で伝えた。F社担当者もハリモトの存在は業務の安定運用のリスクであることは感じでいたので、会社と立場は違えどもヤスオと理解しあっていた。トラブル報告の場にて、部長とハリモトが現場ミスであることを説明して引き上げようとしたとき、F社の品質担当は仕様書の引継ぎの有無を問うた。ピンポイントで追求された部長とハリモトは、誤魔化すこともできず、事実を明らかにし、組織的問題であることを自白せざるを得なかった。彼らにすれば面前の敵と対峙しているとき、後方の味方(部下)から矢を放たれたのである。なお、部長もハリモトもヤスオと同世代。必死の努力で組織にかじりついて階段を昇った二人と、自分の考えで発言し行動する自由を持つ平社員のヤスオは対照的な生き方であった。
その数年後、ハリモトは部下への暴力と部下のうつ病発症により、社長令により人事担当役員による身辺調査の対象となる。世相はパワハラやコンプライアンスに厳しくなってきていた。人事担当役員はハリモトの行動について社員へのヒアリング調査を実施した。そこでヤスオは請求水増しや女性社員を伴う特定グループの旅行の証拠資料を提供した。ハリモトを懲戒対象にするか否かは上層部で議論はあったようである。しかし最終的になんの咎めも受けず役員の地位にとどまった。たまたま同タイミングで別部門で社員の自死事故が発生し、社長としては問題を複数認めたくはなかったようである。所詮は天下り社長は事なかれ主義である。問題を明らかにして責任を問われるより、在任中は臭いものには蓋をしたいのである。
いろいろな会社で不祥事事件が新聞に報道されるが、それは氷山の一角であって多くの場合は水面下に隠れている。それが組織という世界なのだ。ハリモトの役員の地位は安泰である一方で、ヤスオは管理スタッフから現場作業員へ異動となった。係長ではなく一作業者として。ハリモトからの復讐のメッセージとして受け取った。
会社員生活も30年となり、ざまざまな場面でいいことも悪いことも経験したヤスオであったが、会社という組織への失望は天敵ハリモトとの対決だけではなかった。名門企業、エリート社員の”保身”は階層社会における人間の本質を示すものであった。
F社は日本で最も早くクレジットカード事業を開始した有名企業である。テレビCMには人気タレントが出演する。4月の社内広報誌には新入社員の顔写真が載るが、女子社員が皆目を引く美人揃いである。人気企業なのでミスキャンパスとか美形を人事は選び放題なのである。金融業界は全産業界のなかで給与水準が高いといわれるが、メガバンク系のF社は銀行並みの待遇であった。彼らとは呑みの席で価値観の違いが明らかになった。昨年はイタリア行ったよ、今年はスペインにするよ、、、娘が◯◯学園中等部の受験なんだ、、、等々、豊かな暮ら振りが随所にあらわれた。そして身なりが違っていた、スーツもシャツも生地がしっかりしていた。E情報サービス社は運用部隊の会社なので、高収益は得られない、かつ会社の規模には不釣り合いなほど多数の銀行からの天下り役員を抱えており、その割りを食って社員はほとんど昇給しない構造となっていた。F社の事務センターには明確な階層(格差)があった。F社社員、E社出向社員、E情報サービス社員、派遣社員。その階層ごとに給与水準は7掛〜になる。1000万、700万、490万そして派遣社員は240万という具合だ。
その待遇に比例して生産的な仕事が遂行されるかというと、むしろ逆であったかもしれない。F社社員は上位からの通達をただ現場に伝達し、チェックするだけであった。何か新しい価値を生むという生産活動は、少なくとも事務センターにいる限りは見られなかった。彼らはいわゆる有名大学出身者の秀才の集団である。だが内向きの閉鎖社会にいるとその能力は外に向けて発せられることはない。例えば、ヤスオがかつて勤務したコンピュータA社では、常に新しい製品を開発しなければ市場から取り残されるし、その商品は顧客に評価されるものでなければならない。だからA社の社員は外(顧客)を向き、未来を志向し、革新性を追っていた。しかし、銀行業界は長年財務省の統制下にあって、監督官庁の顔色を伺うことが戦略であり、独自性を発揮するという価値観はない。ルール通り動く中では、学閥とか人間関係のパワーバランスでヒエラルキーが生まれ、縦社会が形成される。そのような企業では、社員は顧客を見ることはなく、社内の上をみて仕事をする。社員の仕事は上の要求へ応えることであった。答えをみつける能力と正解のない問題に取組む能力は全く別物であるが、学校秀才のF社の社員たちは、もっぱら上が満足する報告書作成に神経を注ぎ、そのための会議に時間を費やしていた。
時代は進み、金融業界ではIT企業が決済業務に参入し、電子マネーや◯◯payというシステムが一気に市場に拡がる。内向きの銀行員には市場を見る目も未来を想像する力もなく、存在感が急速に薄れつつある。革新の波はTシャツ、短パンのアメリカ西海岸から生まれる。スーツを着込んだ古い常識に囚われた銀行員は対抗できない、そこに銀行は危機感を抱き、服装の自由化を推め、外部から積極的に新しい血を導入しようと社風の改革に取組む方向はみせている。
F社の社風を硬直的にしているものは銀行からの天下り幹部たちである。彼らは古い銀行の価値観、縦社会の権化であった。重要案件に際し、社員たちは真っ赤な目で徹夜で資料を準備して社長レビューに臨む。レビュー資料は分厚いものになった。しかし、出席した社長は、数ページに目を通すと、社員の説明を遮って、一方的にダメ出しをした。どうでもよい些細なことで社長は声を荒らげて社員たちを叱責した。銀行出身の幹部の頭のなかはひたすらに部下を叩き潰すことが仕事であるようだった。ドラマ半沢直樹では上層部からの理不尽な圧力が社員を襲うが、あながち演出ではなく銀行文化の一幕のように思われる。トップの価値観が変わらない限り、スーツを脱いだところで銀行文化は変わらないし、未来志向の優秀な人材は転出していくだろうのだろう。
F社の社長は、「クレジットカードの事務処理を全てペーパーレスにしろ、紙を使うなんで時代錯誤だ」と断じシステム化を推めた。もちろん方向性は正しいし、そこに向けてシステム投資することも経営判断として的確だ。しかし、高圧的に社員に厳命する社長の姿勢は、現場に大きな混乱を負担を強いることになった。項目が細かいクレジットカードの書類は、申込者が完璧な記載をすることはなく、項目間の矛盾や記入間違い、漏れが必ずある。それを人手で修正したり補足してから入力を行う。しかし、F社が進めるペーパーレス運用ではその手順がカバーされず、現場の負担は大きくなった。そもそもシステム自体が不完全で開発スケジュールは遅延した。本番前のテストでも問題が多数発覚したが、F社の企画部門はシステムを改善することなく、スケジュール通りに強引に本番稼働させた。シンプルな業務はシステム化しやすい。しかし例外事項の多い複雑な業務はシステム化しにくい。クレジットカードの業務は例外が多く、それらを全て拾って手順書を作成すると電話帳のような膨大なマニュアルになってしまい、使い物にならない。例外や細かい運用は作業者の頭の中に経験で補われ処理されていた。しかし、マニュアルに記載されていない頭の中は当然プログラミングできない。そのため、多額の費用を投じて構築されたペーパーレスの事務システムは使いもににならなかったのである。 真っ直ぐな太い道を通って荷物を運搬するならば大型トラックが効率的だ。しかし細い入り組んだ裏路地で荷物を配送するならば自転車の方が速い。それにもかかわらず、高い投資をして大型トラックのようなシステムを開発してしまった企画部門としては、自転車の方が速いとは社長には報告できない。社長に一切意見を言えない企画部門は、細い路地に大型トラックで入ることを現場に無理強いした。結果として発生したことは、ミスと事故、そして大型トラックから自転車への積替えの時間ロスであった。事故が起きていることも生産性が落ちたことも社長には報告されなかった。社長に対してYESしか発言を許されないF社企画部門の社員は、スケジュール通り進捗している、生産性も想定通り向上している、と偽りの報告書を作成する。そうすると、次のフェーズへのGOサインが出され、さらに高いハードルが現場に課せられる。現場としては発生した事故への手作業での修復、そして生産性が低下した分を残業でカバーするという余計な業務負担が増した。世の中は「働き方改革」の掛け声のもと、残業も管理されてきたので、サービス残業が増えることにもつながった。表向きはシステムが成功し、品質と生産性が向上したことになっているので、企画部門は社内表彰の対象となる。彼らの1/4の賃金で働く派遣社員は負担増に苦しむという構図となった。黒いものを白と報告書に書いて保身するエリート社員の人間性にヤスオをすっかり幻滅した。◯◯電機、□□自動車、△△製鋼・・・という日本を代表する名門企業での経理不正、不正検査、品質偽装等の不祥事が次々に明らかになった。現場を無視したトップの厳命に対してNOといえない中間管理職がやむなく偽装を強いられたのであろう。偽装を拒否して誠実に仕事をするものは目標未達成で冷や飯を食わされる。良心を捨てて取り繕ったものが出世していく。華やかなテレビCMの有名企業の内幕での嘘に嘘を塗り重ねた世界にヤスオは心から憤り、幻滅し、ただ冷めた目でみるだけであった。
E情報サービス社での10数年の日々。クレーム対応に苦しんだ日々、役員との因縁の対決、有名企業の保身体質への幻滅、改革プロジェクトの実践、そして女子社員たちとの妖しい関係・・・など思いの詰まった職場であったが、ヤスオにとってはことがサラリーマン人生の最期の場所となった。
E情報サービス社は赤字削減のため現場無視の要員削減を加速させていた。経営資源をF社ではなく条件のよい銀行業務にシフトさせる計画であった。このままでは業務が回らず、事務センター運営に支障をきたす。それだけではない、マニュアルが詳細をカバーせず、属人運用に依存している以上、人材流出はノウハウ消滅につながる。ヤスオはF社の企画部門の社員にE情報サービス社の要員削減計画を伝えた。F社は危機感を持ち、E情報サービス社への業務委託を打ち切り、自社運営に戻すことを検討した。要員をまるごとF社の事務子会社に転籍させる構想が持ち上がった。そのような背景で、F社とE情報サービス社の委託契約の解消は半年間にわたる調整を経て、合意に至った。
E情報サービス社員80名はそのままF社事務子会社に転籍となり、派遣社員200名はF社契約となった。しかしヤスオなどE社からの出向組10名は転籍対象外だった。
自己保身に走るF社の体質には失望していたし、天敵のハリモトが牛耳るE情報サービス社にも、パワハラの辛酸をなめさせられE社にも全く未練はなかった。ヤスオは50代半ばで早期退職の道を選んだ。会社にしがみつくよりも、心身が元気なうちに技術を身に着けて再出発したいと考えた。自身の子どもたちも就職し独り立ちしていた。退職すれば安定した収入を失い、大幅な生涯収入ダウンとなる。それでも新しい世界に踏み出す気持ちが強かった。金銭に無頓着な妻の反対はなくヤスオはE社人事部に退職を告げた。
F社事務センターでの10数年はクレーム対応やハリモトからの冷遇など苦しいこともあったものの、多くの社員や派遣社員と仲間意識をともにできる環境であり、自分の居場所があった。30年以上のサラリーマン人生のなかでも最も充実した時間を過ごした。12月の仕事納めが最終日であった。100名ほどの部員に囲まれ挨拶を行った。サラリーマン生活の最後を飾る舞台に胸がいっぱいになり、泣きそうな衝動を感じながら仲間たちに感謝の気持ちを伝えた。
想定外だったのは部からの餞別だけではなく、個人的な餞別の品々を抱えきれないほど受け取ったことだ。それはかつての転職時や異動では経験したことがなかった。地味で目立たない性格でかつ役職にも就いていないヤスオであったが、この職場ではなにがしかの存在感をもっていたらしい。それはアンチハリモトの立場を貫いたことへのご褒美かもしれない。
師走の寒風に震え家に帰った。
翌朝、目を覚ました。
”もう行く会社はないのだ”と実感した。
仲間たちが書いてくれた寄せ書き、そして餞別の品々をみながら、なぜか涙がこみ上げた。その涙の意味は何だったのか?
ヤスオ本人にもわからなかった。ただ、過ぎ去った日々が切なかった。苦しいことにも辛いことにも必死に取り組んできた自分自身が愛おしかった。
E社とE情報サービス社ではサラリーマンとして不遇な時間であったが、人生観を根本的に一変させる価値観に出会った。
V.E.フランクルの「人生から何を期待できるかではなくて、人生がわれわれに何を期待しているかが問題なのである」という考え方である。それまでは自分の人生は自分もものであり、自分が選択し決定するものと思っていた。しかしナチスにより強制収容された経験を持つフランクルは、自分は主体ではなく客体であるというのである。そこからヤスオは人生は”一遍の映画”であると思うようになった。シナリオを描く脚本家ではなく、与えられたシナリオを演じる役者である。凡庸な毎日より波乱万丈なドラマがあった方がよい。どんな境遇も受け容れようと心に決めた。天が自分に与えたドラマなのだ。
組織の底辺でもがいたことは悪いことばかりでもない。完璧主義で理想の高いヤスオは自分の妻や子どもたちを減点主義でみるところがあった。転職でキャリアアップを図り◯◯総合研究所の社員の座を得て、また難関の資格試験に合格したこともあり、家族を含めて周囲の人たちを上から目線でみることがあった。のんびりとしていて上を目指す努力をしない子どもたちを容認できない気持ちがあった。また大雑把で無神経な妻に対して嫌悪感を覚えることもあった。その感覚は冷淡な態度となり、夫婦仲が悪化し、家庭が崩壊した。思春期の多感な子どもたちは次第に元気さを失い、高校に登校しなくなるような状態にもなった。もしヤスオが企業の競争社会を勝ち抜き階段を昇っていたら、彼らを潰すところまでプレッシャーをかけることになったと思われる。しかし自分が組織の弱者の立場を経験することで、人間の価値が偏差値ではないこと、人生は多様であることを身にしみて知ったのである。ヤスオの心が変わることで態度も緩み、家庭や子どもたちを破壊することを免れた。ヤスオが会社組織の底辺に落ちるのと引き換えに、子どもは学校を卒業し、苦労しながらも巣立っていった。人生万事塞翁が馬・・・後から振り返ってみると災いや不幸と思われた出来事は、大切なものを護り、心の安らぎや幸せをもたらしていた。
さて、50代なかばで早期退職したヤスオが次に進んだ道は何か?会社という組織は離れたかった。フーテンの寅さんのように全国津々浦々を旅し、その場所場所で働いてみたいという思いがあった。まずは冬の北海道に住んでみようと思った。高校生のとき北海道での大学生活に憧れていた。その夢は学力が足らず実現できなかったが、厳しい冬から雪解けの春までのひとシーズンを体験したいという思いは、数十年の時を経ても消えることはなかった。ヤスオは羊蹄山を仰ぎ見るスキーリゾートで働くこととした。50代なかばのオヤジのフリーター生活がスタートする。
第4幕 金融事務 E情報サービス社 まとめ
時代背景:リーマンショック、東北大震災 平成から令和へ
業種:クレジットカード事務センター
職種:事務運用管理
仕事の特徴:
金融事務は大量の派遣社員に支えられている。
ルール通り規則通り処理することが要求される一方、
例外事項が多くマニュアルに記載されていないことも多い。
システムは未整備で人海戦術に頼る。
作業環境:
ペーパーレス化進展。カード利用明細書、申込書、変更届のWEB化
それにより、印刷部門撤退、データエントリ業務縮小の流れ
システム構築やデータエントリ業務のオフショア化(海外委託)開始
社風:
銀行文化はトップが絶対的な縦社会である。半沢直樹の世界
トップに忖度し黒いものを白とする報告書が作成される。
社員も会社も保身が第一。
得たこと:
組織のパワーゲームから離脱して自由な精神を得たこと。
アンチ権力者の立場を貫いたことによる一般社員たちとの仲間意識
人生最大のモテ期
失ったこと:
役職、地位
生涯収入減少
クレーム対応による精神的な健康
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