江戸の鬼才、大田南畝が選んだ「万載狂歌集」②
江戸の戯作者、大田南畝(おおたなんぽ=四方赤良よものあから)は狂歌を多く作った。彼が35歳の時、朱楽菅江と編集した「万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)」の「四季」と題した作品を前回に引き続き見る。
春
79 つばくらの軒端につちをくはへ来て うち見るたびに出る子だから とめ女
つばくら(ツバメ、燕)が巣作りのために土を運ぶ。土に打ち出の小槌の槌(つち)をかける。打ち出の小槌で宝物が出てくるように、ツバメの新しい命(子宝)が生まれてくる。
97 心あてにならばやうへん(植へん)きくの花 秋のこかねの色をたのみて 目黒粟餅
「菊の苗をうゆる(植ゆる)」という詞書がある。黄金(こがね)の色は黄色い菊の花と小判の黄金色をかけている。
本歌(元歌)は有名な百人一首の歌だ。
心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどわせる白菊の花 凡河内躬恒
ここまでが春の歌。
菊は秋のものだが、凡河内躬恒の歌は初冬。目黒粟餅の歌は秋ではなく、苗を植える春の様子。
夏
109 ほととぎす須磨の浦ではなけれとも なれをまつ風 村雨の空 から衣橘洲
平安時代に在原行平(色男で有名な在原業平の兄)が須磨に流された。つまり流罪だ。須磨の地で、松風と村雨という姉妹の海女が行平の愛人だったといわれる。そういう話を知っていないと理解できない。ホトトギスが誰を待つのか村雨の空で、という意味に、松風(待つ風)と村雨の姉妹をかけている。
ちなみに、料理道具の行平鍋(雪平鍋とも書く)は、行平が須磨で塩を作る時に使ったのがこの鍋だと言われて名付けられた。
作者、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)は、武士であり、朱楽菅江(あけらかんこう)、大田南畝と並び、狂歌三大家とよばれた。
110 ほととぎすなきつる方をながむれば たたあきれたる つらそのこれる 平郡実柿
本歌は、有名な百人一首の歌。
ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる 後徳大寺実定
ホトトギスの鳴き声の方角を見れば、ホトトギスの姿はなく、明け方の有り明けの月が残っているばかりだ。
平郡実柿の歌は、月ではなくて、あきれた面が残っている。ホトトギスの声を聞いた作者の面があきれ顔だったというものだ。
ホトトギスは、風流なものとして見られているが、鳴き声は「テッペンカケタカ」「トッキョキョカキョク」で、うるさい。それを優雅ともとらえられるし、優雅とはほど遠いものと感じることもある。同じものでも、見る方向によって全然違ってくる。
それが狂歌の見方でもある。
115 いつれまけ いつれかつほと郭公 ともに はつねの高うきこゆる から衣橘洲
いずれが負けか、いずれが勝つか、という言葉にカツオ(かつほ)、初鰹をかけている。詞書に「ほととぎす、鰹の優劣を人のとひ(問い)はべりし時」とある。初鰹とホトトギスの初音の、どっちがいいかという問いに対する歌。共に高く聞こえる、と言っているが、初鰹には江戸っ子はいくらでもお金を使ったそうだ。初鰹の値段が高いのに、ホトトギスの鳴き声の音程の高さをかけている。
ところで原文は「郭公」と書いてある。これは「カッコーカッコー」のカッコウのはず。でも、詞書には「ほととぎす」と書いてある。ホトトギスは平安の昔から歌われてきたが、カッコウの歌はない。カッコーでは和歌にならないか。ホトトギスは有名なので、いろんな書き方があった。時鳥、不如帰、杜鵑、子規といろいろ書かれる。「郭公」という書き方もあった。ああ、ややこしい。カッコーは昔はホトトギスだった。ホトトギスは「郭公」とも書いていた。
137 夜軍に尻のかかり火ふりたてて おいつまくりつ蛍合戦 臍穴主
ホタルの尻が光っているのを、夜のかがり火にたとえ、ホタルがたくさん飛び交っている様子を詠っている。
ツバメやホトトギス、ホタルなど、自然を楽しんでいた江戸の人々は、それを歌の中に詠みこんでいた。皮肉やお笑いの狂歌の中にも、自然が自然に息づいている。