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三大随筆の一つ「方丈記」の冒頭文を完全暗記しちゃえ
行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
鴨長明(かものちょうめい)の「方丈記(ほうじょうき)」冒頭文。
これを繰り返し読んで覚える。日本を代表する随筆だから、暗記していたらかっこいい。日本文化を紹介できる。
読むときは声に出して読む。ゆっくり読むのではなく、リズムをつけて少し早口で読む。ちょっと間違えても、そのまま読む。間違えるということは、覚えていないわけだから、何度も繰り返し読んで覚える。
原文を読みやすい表記で書くと、
行く川の流れはたえずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶ、うたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく、とどまりたる、ためしなし。
(世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。)
「~久しくとどまりたるためしなし」までの暗記でよい。ここの文も、本によっては「~久しくとどまることなし」となっている。
当時の「本」とは、原本を筆で書き写していた手書きなので、書き間違え(写し間違え)も多い。今となってはどれが原本かもわからないので、違った文章で伝わっている本も多い。さわりを覚えているだけで自慢できる。
さあ、ここまで読んだらまた冒頭文を少し忘れているだろう。もう一度、二度三度と声を出し、リズミカルに読んでみよう。
意味は、
川の流れは絶えないが、それは、もとの水とは違う。
よどみ(川の流れのない所)に浮かぶうたかた(泡)は、消えたり生まれたりして、長く残っているものはない。
(世の中にある人と家も、またこのようなものである。)
「平家物語」の諸行無常と同じ。世の中は変化し続けている。
文章自体もまだ続く。
行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
玉しきの都のうちにむねを並べ、いらかをあらそへる、高き卑しき人のすまひは、代々を経て、つきせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或は、去年焼けて今年作れり。或は、大家ほろびて小家となる。
住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死し、夕べに生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。又知らず、仮のやどり、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顏の露にことならず。或は、露おちて,花、残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は、花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。
河の流れは絶えることなく、しかもそれは元と同じ水ではない。よどみに浮かぶ泡は一方では消え一方ではでき、長い間留まっているということがない。
世の中の人とその住居とも、同じようなものだ。
玉を敷き詰めたような美しい都のうちに棟を並べ、屋根の高さを競い合っている、高貴な人や卑しい人のすまいは、永遠になくならないように思えるが、これを「本当か」と尋ねてみると、昔あった家で、かわらずあり続けているのは稀である。あるいは去年焼けて今年建て直したり。あるいは大きな家が崩されて小家になったりする。
住んでいる人も同じだ。場所は変わらず、人は多いといっても、昔見た人は二三十人のうちにわずかに一人二人といったところだ。朝に死んで夕方に生まれる、人はまったく水の泡のようなものだ。
わからない、生まれては死んでいく人々がどこから来てどこへ去っていくのか。またこれもわからない、住居はこの世で仮の宿にすぎないのに、誰のために心を悩ませるのか、何によって目を喜ばせるのか。その、人とその住居が無常を競い合っている様子は、いってみれば朝顔の露と変わらない。あるいは露が落ちて花が残ることもあるだろう。残るといっても、朝日とともに枯れてしまう。あるいは花がしぼんで、露がまだ消えないでいることもあるだろう。消えないといっても、夕方まで持つものではない。
とにかく世の中は無常だといっている。無常とは常ではない=変化しているということ。この世の全てのものが常に変化している。
これが日本文化を代表する随筆作品だ。
最初の部分だけ、もう一度声に出して言ってみよう。