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江戸の鬼才、大田南畝が選んだ「万載狂歌集」③

 大田南畝(おおたなんぽ=四方赤良よものあから)が選んだ「万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)」(1783)の四季の歌の続きを載せる。




139 のみに ゆふへゆうべはだをせせられて おゐとおいどまたらまだら目はふたかれすふたかれず  鳥山石燕
 作者、鳥山石燕は浮世絵師で、「百鬼夜行」などの妖怪画も描いている。
 蚊はブーンブンの「カ」で、蚤はピョンピョンの「ノミ」だ。今はノミなんて見ることもなくなった。犬などの動物につくノミを見るくらいで、人間のノミはどこへいったのか。昔はノミも多かった。カとノミに夕べも肌を食いつかれ(せせられて)、おいど(おゐと=お尻)はまだら模様、目は腫れあがって、ふさがれない(ふたかれず)。よっぽどひどく食われたもんだ。


 ここまでが「万載狂歌集」四季の夏の歌で、次は、秋の歌。



168 箱入のおり姫なれとこのゆふべあまの川原へくだりさうめん  智恵内子
 7月7日は七夕。旧暦の7月は、もう秋になる。その七夕にそうめんを食べる風習があった。
 箱入りのそうめんと、箱入り娘の織り姫をかけ、箱入り娘の織り姫だけど、いとしい牽牛けんぎゅう(=彦星)に逢うために天の川に下る。それに上方から江戸に送られる「下りくだりそうめん」をかけている。

193 秋の夜の長きにはらのさびしさは たたただくうくうと虫のねする  四方赤良
 秋の夜長に腹が減り、腹の虫がクウクウと鳴く、の意。秋の虫のと腹の虫をかけている。
 本歌は「古今集」にある。

 秋の夜の明くるも知らずなく虫は わがごと物や悲しかるらむ  藤原敏行

196 見わたせば かねもおあしもなかりけり米櫃こめびつまでもあきの夕暮ゆうぐれ  紀野暮輔
 金もお足(銭)もない。高額貨幣の金貨、銀貨も少額貨幣の銭もない。米びつまでもからっぽで空いている。米もない。空き(あき)に秋をかけ、秋の夕暮れでむすんでいる。
 本歌は定家の歌。「秋の夕暮れ」で終わる三夕さんせきの歌の一つ。

 見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ  藤原定家

 他の三夕の歌は以下の二つ。

 さびしさはその色としもなかりけり まきたつ山の秋の夕暮れ  寂蓮

 心なき身にもあはれあわれは知られけり しぎ立つ沢の秋の夕暮れ  西行

 当然、三夕の歌は、みんなが知っているものとして詠われている。江戸の人々は、こういう知識もあった。

223 月見酒下戸げこ上戸じょうごの顔みれば青山もあり赤坂もあり  から衣橘洲
 酒の飲めない下戸げこと、酒飲みの上戸じょうごが月見をしており、酔った赤い顔、悪酔いの青い顔がある。それを地名の青山、赤坂のダジャレにしている。


 ここから冬の歌。


263 いつはりのある世なりけり神無月 貧乏神は身をもはなれぬ  雄長老
 神無月は陰暦10月。旧暦では10月から冬になる。1~3は春、4~6月は夏、7~9月が秋、10~12月が冬。わかりやすい。
 神無月には神様が出雲へ行くから神無月なのだが、貧乏神は出雲に呼ばれていない。神無月といいながら、貧乏神は離れてくれない。言葉のいつわりだ、という。
 本歌は、「続後拾遺集」の定家の歌。百人一首以外の歌の知識も持っている。選ぶ方も読む方も古典のことを知っている。

 いつはりのなき世なりけり神無月 がまことより時雨しぐれそめけむ  藤原定家

303 びんぼうのぼうが次第に長くなり ふりまされぬ年のくれかな  よみ人しらず
 昔の和歌集にならい、「よみ人知らず」の歌も入れてある。
 貧乏の「ぼう」を棒にかけ、貧乏が続くにつれて棒も長くなり、振り回すこともできない。家計もやりくりもできない。そんな年の瀬で一年が終わる。


 武士も町人も、生活は裕福でなくても、狂歌を作ったり読んだりして、心は豊かに生きていた人が多かったのではないだろうか。
 そんな江戸時代の人々の思いが、ちょっと知的にエッチに描かれているのが狂歌でもある。




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