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古川柳八篇③ 笑われるたびに田舎の垢がぬけ 柄井川柳の誹風柳多留
当時の百万都市、江戸には多くの人が集まっていた。田舎から江戸に人が集まるのは、今の東京に地方から人々が集まるのと同じ。江戸の昔も現代もそんなに変わらない。
江戸時代に柄井川柳の選んだ川柳を集めた「誹風柳多留八篇」の紹介、全5回の3回目。
江戸に集まった人々の小さな楽しみのひとつが、川柳を創ることだったのだろう。
読みやすい表記にし、次に、記載番号と原本の表記、そして七七の前句をつける。自己流の意訳と、七七のコメントをつけているものもある。
笑われるたびに田舎の垢がぬけ
239 わらわれる度に田舎のあかゞぬけ 前句不明
都会へ出た娘が、「田舎者だなあ」と笑われるたびに洗練されていく。
七七の前句がわからないけど、五七五だけで完成した作品となっている。川柳も俳句も、五七五七七の和歌の流れをくんでいて、三十一文字で作品が完成すると思われていた。川柳は、七七の前句があって完成する文芸だったが、前句がなくてもわかる作品が多くなっていく。
そうして俳句も川柳も五七五だけの作品となっていった。
竹の子は一本抜いてまず逃げる
282 竹の子は壱本ぬいて先にげる 前句不明
竹の子ドロボウ。こそこそっと1本抜いたら逃げ出す。誰も来ないと次の2本目。そうしてだんだん悪の道へ入っていく。
前述239の田舎娘は、最初は純情だったのに、だんだん洗練されていく。悪く言えば崩れていく。ドロボウは、「嘘つきは泥棒の始まり」のように、最初はビクビクしていたのに、だんだん大胆になっていく。
人間って、慣れるとなんでもできるようになる。それを正しい道に導かなければどうしようもない人間ができていく。
川柳を読むことによって、人生の真実を学ぶこともあったのだろう。
ビクビクと最初しててもすぐ慣れる
そして人生変わっていくよ
人は、良いほうにも悪いほうにも変わっていく。
「ものもふ」のたびに凧から駆けつける
304 物もふのたびに凧からかけ付る にぎやかな事にぎやかな事
お客は「ものもう(もの申す)」と門で声をかける。正月の凧揚げを子どもと一緒にやっていた門番は、あわてて門までやってくる。忙しいこと(にぎやかな事)だ。
年始のあいさつも、今はどうなっているのだろう。あいさつまわりなんてしている人もいるのだろうか。
正月はテレビつまらずネット三昧
どこにも出かけず引きこもる冬
桜ほどだらだらされぬ紅葉狩り
327 桜ほどだらだらされぬ紅葉がり かしこかりけりかしこかりけり
春の桜の花見は飲み食いしながらの宴会。秋の紅葉狩は、日が暮れるのも早いのでささっと終わらせてしまう。桜の花見を「だらだらしている」と見立てたもの。
江戸の町人は、桜の花見や、秋の紅葉狩りに出かける心の余裕があった。はて、現代に生きる我々は、花見や紅葉狩りに行っているのだろうか。
そりゃあ行っている人もいるだろうが、行っていない人がけっこういるはずだ(と思う)。
テレビやネットできれいな風景はいくらでも見られる。コロナ禍を経て、ますますお出かけがなくなっているだろう。
梅も散ってきたし、河津桜も盛りを過ぎた。でもまだ花は残って生きている。
二次元の映像だけでなく、匂いも風も感じられる現実の風景の楽しさも思い出そう。
タイトル画像は江戸の浮世絵師、歌川国芳(1798~1861)の作品の模写。「金魚づくし 玉や玉や」より。昔は貴重品だった金魚も、江戸時代に品種改良されて一般に飼われるようになった。品種改良といえば、植物では、朝顔や菊の品種改良も行われ、今では見られないいろいろな品種をつくっている。そういうものを楽しむ人々がいるので、品種改良もどんどん行われた。これも江戸の文化のひとつ。
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