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悦贔屓蝦夷押領①~義経伝説を描く蔦屋重三郎の黄表紙出版

 日本が世界に誇る文化の一つにマンガがある。
 マンガを日本に広めたのは手塚治虫てづかおさむ(1928~1989)であり、手塚のマンガが世に広まったのは、江戸時代に、絵と文が一体となった草双紙くさぞうしと呼ばれる小冊子があって広く読まれていたので、日本人に抵抗なく読まれた。そう言っても過言ではないだろう。
 草双紙は、地の文と絵があり、絵にはセリフも書かれている。
 子ども向けのマンガから、大人が読む劇画が生まれたように、子ども向けの草双紙から、大人向けの黄表紙きびょうしが生まれた。黄表紙を生んだのが、本作品の作者恋川春町こいかわはるまち(1744~1789)だ。

 本作品は、現代から見れば、差別と偏見にあふれているように思えるだろうが、当時の江戸の人々は、エゾ地、北海道をどう思っていたかがわかる。

 源義経みなもとのよしつね奥州おうしゅう平泉ひらいずみで戦死せずに北海道に渡ったという伝説をもとに描いた「悦贔屓蝦夷押領よろこんぶひいきのえぞおし恋川春町こいかわはるまち(1744~1789)作、北尾政美きたおまさよし(1764~1824)画、天明八年1788蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうから刊行された上中下三巻。
 それを三回に分けておくる一回目。

 


上巻
大言だいげん

 それ草双紙くさぞうしの作に六義りくぎあり。一にいわく、「思付おもいつき」、二に曰く「意気いき」、三に曰く「出来でき」、四に曰く「はたらき」、五に曰く「はげみ」、六に曰く「知恵ちえ」、いわゆるこれなり。は、四、五年、草双紙の作品を休み、思いをひそめ、専門書を読んではじめてこの六義りくぎさとり、大極上だいごくじょうの思いつきの作品を発表すると、うぬぼれウヌヌヌ。

天明八戌申つちのえさる年正月穀旦こくたんめでたい日
  寿山人じゅさんじん恋川春町こいかわはるまち

 


 さても御曹司おんぞうし源義経みなもとのよしつねは、兄上、源二位頼朝よりともと不仲になり、奥州おうしゅう藤原秀衡ふじわらのひでひらやかたへ逃れたとあれども、実は仲が悪いということはなく、鎌倉では、弟なので他の大名なみにはできず、少なくとも四、五十万ごくも与えなければならず、倹約けんやくが叫ばれる時代なので、兄弟げんかということにして、秀衡ひでひらのところへ行かせたものなり。ゆくゆくは、秀衡の領地をすべてもらおうという計略なり。
 義経よしつね公は、ご存じのとおりの名将めいしょうなので、鎌倉のことも、秀衡のことも、よくご存じなれども、やっぱり知らぬ顔して、だまされたふりをする。
 秀衡ひでひらもたぬき親父おやじにて、この計画を承知しょうちしており、愛想あいそうをふりまき、
蝦夷えぞを攻めてはどうか」
とすすめる。
 なにせ物価高の時代、義経よしつね一人のみならず、亀井六郎かめいろくろう重清しげきよ片岡八郎かたおかはちろう為春ためはる伊勢三郎いせさぶろう義盛よしもり駿河次郎するがじろう武蔵坊弁慶むさしぼうべんけい常陸坊海尊ひたちぼうかいそんという、屈強くっきょうの者らに食いたてられては、居候いそうろうには、しかねるはずなり。
秀衡「鎌倉のいかりも大きく、近々ちかぢか追っ手おってをさしくだされるとのこと、ひとまず蝦夷えぞが島へ逃げられて、そこを支配されてはどうでしょう。かねてより、こんなこともあろうかと、蝦夷までの抜け穴をこしらえておきました」
亀井「こいつは何よりの相談だ。北海道グルメを堪能たんのうするぞ」
義経「委細いさい承知しょうちすけ。さっそく蝦夷へ行かん。さあ、用意用意」

 


 秀衡ひでひらの教えのとおり、義経よしつねは、亀井六郎かめいろくろう重清しげきよ片岡八郎かたおかはちろう為春ためはる伊勢三郎いせさぶろう義盛よしもり駿河次郎するがじろう武蔵坊弁慶むさしぼうべんけい常陸坊海尊ひたちぼうかいそんしたがえ、抜け穴より、舞台のはしに出れば、たちまち蝦夷えぞの浜辺に出たり。
 ここにて、蝦夷えぞラカサシテール司馬しばダンカンという者をり、蝦夷えぞの案内人としたまう。
 亀井六郎かめいろくろうが、蝦夷えぞ人をる。
亀井「よっこらせいのオットセイ、動くな動くな。このダジャレは北海道ならではのものさ」
ダンカン「くそー、このくやしさは、弾冠だんかんの計画ではらすぞ」
常陸坊「亀井かめい殿、亀井殿、あんまりひどいことはしなさるな。後で役に立つかもしれませぬぞ」 

 弾冠だんかんとは、かんむりを用意し、仕官しかんの準備をすることで、ダンカン(弾冠)という名前が、あっという間に老中まで出世した田沼意次たぬまおきつぐを暗示しているが、そこに気づいた人はいただろうか。

 


 それより、義経よしつね主従しゅじゅうは、司馬しばダンカンを案内者として奥蝦夷おくえぞへ行く途中、ダンカンは、わざと道なきところを案内し、竜門りゅうもんたきならぬ、ゆうもんの滝というところへ連れて来て、
「この滝を登らなければ、奥蝦夷おくえぞへは渡れない」
と教える。
 されども、義経は天狗てんぐ弟子でしなので、鞍馬くらま僧正坊そうじょうぼうが現れて、力を与えたので、なんの苦労もなく、義経主従は、こい滝登たきのぼりのごとく、ゆうもんの滝を登りたまう。
常陸坊ひたちぼう「体がれるのはかまわねえが、着物の濡れるのが困ったもんだ」
僧正坊「師匠ししょう坊主ぼうずと呼んどくれ、よやさのさ」
 ダンカン、おおきにあきれる。
ダンカン「人の滝登りとは、アハハハ、初めて見る。みょうなり妙なり」

 


 ゆうもんの滝を登り、奥蝦夷おくえぞの地にやってきたところ、まことに不毛ふもうにして、人跡じんせきえて、宿やどるべきところもなければ、海から昆布こぶを持ってきて、仮の宿をこしらえ、一夜をあかす。
 奥蝦夷おくえぞは、まことに北のてなので、寒気かんき強く、夏の間だけ少し暖かくなるので、四季が一度にやってきて、その景色はなんともいえない。しかし、食い物のないことには困った困った。
義経「こっちは寒くて、あっちは暖か。熱く、ぬるく、くさく、というところだ」
常陸坊ひたちぼう蝦夷えぞというところは、とんだところだ。体半分暑くて、体半分は寒中かんちゅうのようだ」
 昆布こぶ炬燵布団こたつぶとんにして、片端かたはしからその昆布こぶ茶請ちゃうけにして食べる。
弁慶酢昆布すこんぶほどには、うまくない」

 


 蝦夷えぞの地は、五穀ごこくが取れず、奥蝦夷おくえぞは当然まったく取れず、ただあるものは、昆布こぶ数の子かずのこ、魚ばかりなり。秀衡ひでひらやかたから持ってきた食料も少なく、魚をとって食料の足しにして、さらにフナを焼きフナにしてたくわえ、米をといだ後のとぎ汁、白水しろみずをためておく。
片岡「焼きフナは食べるとうまいが、白水は、はて、何になるか知らぬ。かみさんが洗濯の洗剤代わりに使うやつだ」
亀井「毎日毎日ボクらはフナを焼く。もうきたよ」 



 北海道やアイヌだと思われる人たちへの偏見に満ち満ちているが、知らないからこういう表現しかできなかったのだろう。
 我々も江戸のことを知らないから、「江戸とはこんなものだ」と思うところもあるだろう。
 江戸人が描く北海道の様子はどうなるか、次回につづく、

 


黄表紙の始まりといわれる恋川春町こいかわはるまちの「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」の現代語訳は、こちら、

黄表紙の代表作「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」の現代語訳は、こちら、

これらの中に、他の黄表紙の紹介もあるので見てほしい。 


 ところで、蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうは出版社であり、黄表紙きびょうしをはじめた恋川春町こいかわはるまちは作家である。そういう二人の関係だけでなく、もうひとつ、狂歌きょうかでのつながりもある。
 狂歌は、当時の武士や町人、あるいは歌舞伎役者などが一緒に集まりつくっていた。蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうは町人であり、恋川春町こいかわはるまちは、本名倉橋格くらはしいたる、駿河小島藩の武士である。狂歌名は酒上不埒さけのうえのふらち。一方の蔦重つたじゅうの狂名は蔦唐丸つたのからまる。自分でも狂歌をつくり、狂歌の本も出版している。

狂歌についてはこちらも、


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